途中で演者が消える落語2015/03/29 06:53

米朝さんは、さらに落語が、講談や浪曲、漫談などの他の話芸と違うところ は、「とちゅうで演者がきえてしまう」ところにある、と言う。 おしゃべりの しかた自体が、演者が出てこなくなっているというのだ。

講談の話法で、「さめざめと泣きやまぬ娘を、いささかもてあましたか源七は 『もういいわかった。それじゃあおれが、お前を家まで送ってやって、お父つ ぁんに話をしてやろう』……娘はなおも肩をふるわせながら『いえいえ、もう 今さら帰ってもむだでございます』と言う。」

これを落語だと、地の文をとってしまって、対話ばかりにしてしまう。 「(娘 をもてあましているという口調で)もういいわかった。それじゃあおれが、お 前を家まで送ってやって、お父つぁんに話をしてやろう」「(肩をふるわせて泣 くようすで)いえいえ、もう今さら帰ってもむだでございます」という演出に なる。

講釈師はあくまで、講釈師として源七について語り、娘の状態を説明して話 をすすめていくのにたいして、落語家の場合は、源七のセリフを言うときは源 七になりきってしゃべり、そのセリフを言いおわったとたんに娘になって、そ のセリフをしゃべる。 その設定された状態でのセリフを、感情を、もりこん で言うのだから、役者がその役の人物を演技しているのとおなじで、ただたえ ず役が変化しているわけだ。 したがって源七からすぐ娘になり、また源七に もどって話をすすめるから、演者自身は、消えてしまうということになるわけ である。

もっとも、落語でも、とちゅうで、地にもどって説明する場合もある。 い わゆるナレーションだ。 昔からこの地はすくないほどよい、短いほどよい、 とされたもので、なしでやれるなら無いにこしたことはないとされている。 しかし、この地の部分が効果的なこともあるし、これがなければ、話がすす められないこともある。 この部分はやはり、演者個人にもどって、米朝なら 米朝という噺家がお客に語りかけるわけだが、この場合、ものにもよるが、米 朝という人間がしゃべってはいけない。 無人格のナレーターとしてやるのが 正しいと米朝さんは思っている。 ただ、無人格のナレーターというのは、感 情をまじえずにできるだけ素読(すよみ)をするという意味ではない。 マク ラの部分とちがって、もうその話が進展してきている、明治とか江戸とかいう 時代の舞台へお客を案内してきている以上、その雰囲気をなくさないように、 いやもっとだすように、その場合においての一番適切なナレーションをはさみ こむべきなのだ。

米朝さんは言う。 すべて味わいは、十分な説明をしないで相手にわからせ た時の方が、味がよいものだ。 落語は、説明をすくなくしてだんだん聞き手 にわからせてゆくやり方をとっている、と。