天才儒者・中根東里、知られざる大詩人2015/07/02 06:34

 磯田道史さんの『無私の日本人』で、二人目は中根東里(なかね とうり) という儒者である。 「詩文において中根にかなうものはおらぬ」というのが、 享保(1716~36)ごろの江戸文人の常識であったし、寛政(1789~1801)に 入ると、わずかに遺された詩稿を目にした諸家が「慶元以来(慶長元和、つま り江戸時代になって以来)、稀有絶無の天才であろう」と驚愕したという。

 これほどの天才が世に知られなかったのは、みずからつくった文章を、こと ごとく竈(かまど)の火の中に投じてしまって、おのれの形跡をひたすら消そ うとし、村儒者として生き、村儒者として死んだ人物だったからである。

 伊豆下田の医師の家に生れ、禅寺に入り、唐音(中国語)を学びたいと宇治 の黄檗山萬福寺に行き、唐音を習得した。 萬福寺の経蔵には、中国渡来の万 巻の書があったが、禅の修業は書見ではないといわれ、山を下りる。 「江戸 に徂徠なる者がいる。博学であり、文章をもって後進を誘い、新しい学問をや っている。唐音については、自分の右に出る者はいないと自負している」と聞 いた。 江戸駒込の浄土宗蓮光寺の僧、慧岩(えがん)が詩文にすぐれ荻生徂 徠の門下と知って、そこを訪ねた。 黄檗山で唐音を学んだと聞くなり、慧岩 は身を乗り出した。 江戸文人の中国への憧憬の強さは、我々の想像を絶する。  江戸の日本人は、庭も書画も、かの国のものを尊んだ。 東里は蓮光寺で、こ の世にある一切の経典をあつめた大蔵経五千余巻を、比叡山をひらいた伝教大 師最澄と同じ19歳で読破した。 博覧強記で、学びの姿勢は真摯そのもの、 書物を読んで字句の解せないところがあると、五年でも十年でも憶えており、 事にふれて、解がひらめく。 東里の噂が、荻生徂徠に届き、慧岩に「会わせ てもらえないか」と、丁寧に言ってきた。

 正徳から享保にかけて(1711~36ごろ)、江戸の儒学界には荻生徂徠の嵐が 吹き荒れていた。 徂徠は、儒学は宋代の学者・朱熹の朱子学によって曲解さ れた、わしが本物の儒学を教える、と過激な説を唱え、多くの門人を集めてい た。

 実は、この後、磯田道史さんは荻生徂徠について、あまり善く書いていない。 むしろ、悪く書いている。 そこで、ちょっと脱線する。 私は、荻生徂徠に ついて、まったく知らない者だが、最近その名前を二つのところに書いていた。  2014年12月『福澤手帖』第163号の「青木功一著『福澤諭吉のアジア』読書 会に参加して」に、講師の平石直昭東京大学名誉教授が質疑応答の中で儒学に ついての質問に、こんな興味深い見解を述べられたと、こう書いた。 「勝海 舟は本物の儒学者ではない、福沢は本物の洋学者。日本に近代を樹立したのは 荻生徂徠で、人類史、文明史全体を括弧に入れ、人類の文化の外に出た。儒教 的枠組みをとっぱらって、事物そのものを見た。陰陽五行説は、聖人が作り出 したもの。蘭学(福沢のやった)も、国学も、学問の方法としては、徂徠学か ら出ている。最近の中国でも戦略家は『春秋左史伝』を参考にしているのでは ないか。福沢は『春秋左史伝』が得意で全部通読し、十一度も読み返して面白 いところは暗記していたと『自伝』にある。」

もう一つは、落語に「徂徠豆腐」というのがある。 入船亭扇辰が3月の国 立小劇場の落語研究会で演じたのを、この日記の3.16.に前半、3.17.に後半を 書いた。

磯田道史さんが、荻生徂徠について、どう書いているかは、また明日。