「天皇制を守った男」鎌田銓一の秘話2015/08/01 06:15

 4月から7月までTBSテレビ60周年特別企画として放送された『天皇の料 理番』が、とてもよかった。 ドラマは大河ドラマ以外あまり見ないのだが、 これは最後まで見た。 終わり近く宮内省大膳職司厨長(料理長)を務めた秋 山篤蔵((佐藤健(たける))、実名は徳蔵)が、第二次大戦後、天皇が戦争裁判 にかけられることを防ぎ、天皇制を護持するために奮闘する姿が描かれた。 そ のためにはGHQ(総司令部)の連中の耐え難い無理難題をも、耐え忍ぶのだ った。 GHQのメンバーの皆が、それほどまでに教養のない人であったとは 思えないという感想を持った。

 7月19日(日)BS朝日放送の「皇室スペシャル」で、「発掘秘話!天皇制を 守った男“ジェネラル鎌田”」を見た。 鎌田銓一という人物を、初めて知った。  鎌田銓一は明治29(1896)年生れ、陸軍士官学校29期(7位)、陸軍員外学生 制度で、砲工兵学校26期(首席)から京都大学土木へ進み、さらに昭和6(1931) 年アメリカのイリノイ大学アルバナ校に留学した。 アメリカ随一の工兵隊フ ォート・デュポン工兵隊に入隊し、300人の部下を持つ大隊長にまでなった。  この時の連隊長が、ダグラス・マッカーサーだったというのである。

 昭和6(1931)年満洲事変が勃発、翌年の満州国建国、国際連盟脱退となる。  鎌田銓一は陸軍中将、関東軍第二野戦鉄道司令官になった。

 敗戦後、マッカーサー連合国軍総司令官の先遣隊がやってくることになり、 鎌田中将は急ぎ満洲から呼び戻される。 昭和20年8月28日、陸士同期の有 末精三陸軍中将と、厚木飛行場で先遣隊を迎えると、先遣隊長チャールス・テ ンチ大佐、ダン大佐が、フォート・デュポン工兵隊で鎌田が大隊長をしていた 時の、部下だったのだ。 緊張していた空気は、いっぺんに和やかなものにな った。 その2日後、テンチ大佐から連絡を受けたマッカーサー連合国軍総司 令官が、例のコーン・パイプをくわえて、厚木飛行場に降り立つのだ。

“ジェネラル鎌田”の「国民外交」2015/08/02 06:57

 “ジェネラル鎌田”というのは、(石井正紀著『陸軍員外学生 東京帝国大学 に学んだ陸軍のエリートたち』(潮書房光人社)にくわしいようだが)陸軍省人 事局長が、陸軍省はどうせ改変されて復員省になり解体されてしまうのだから と、マッカーサー応対委員長の有末精三中将を大将に、副委員長の鎌田銓一中 将を元帥大将に特進する辞令を出していたかららしい。 鎌田銓一には、重大 な密命が下されていた。 「天皇制を護持せよ!」 戦前のマッカーサーとの 人脈を最大限に生かし、「戦後日本に天皇制を残すことは、国家再生のために不 可欠であることを認めさせる」ことが、鎌田に託されたミッションだった。

 9月2日、東京湾沖の米戦艦ミズリー号で、日本の降伏調印式が行われた。  その夜、GHQは三布告を実施する、と通告してきた。 公用語を英語にする、 占領軍が司法権を持つ、通貨は軍票を流通させる。 これは降伏文書に日本政 府代表として署名した外交官重光葵が、撤回させることになるのだが、その前 に鎌田銓一がサザーランド参謀総長と会い、そんなことをしたら大変な混乱が 起こると説いて、三布告の文書を破らせることで、日本の軍政化は避けられた というのだ。

 鎌田は自宅にGHQの高官を招いて、パーティーを開き、当時17歳だった息 子の勇さんにピアノでジャズなどを弾かせ、アメリカン・ジョークを連発、自 ら「国民外交」と言っていた活動を展開した。 表の外交ルートでは、吉田茂、 白洲次郎が主導して外務省が、同様の工作を進めていた。 “鎌田機関”とも 呼ばれた鎌田の活動や秘密交渉は、それとは別の、もう一つのチャンネルだっ た。 ある日、勇さんは父がダグと呼ぶ、マッカーサーらしき人物が来ている パーティーで、リストのハンガリーラプソディー6番を弾いた。 その男は勇 さんに声をかけ、天皇について、どう思うかと聞いた。 現在87歳になる勇 さんは、当時は17歳なので満足な答ができなかったと番組で語っていた。

 9月27日、昭和天皇はアメリカ大使公邸にマッカーサー総司令官を訪れる。  マッカーサーは、天皇が(当然ながら)紳士で、自分はどうなってもいいが、 国民を食わせてやってくれ、と話したことに驚き、感動する。 そして、マッ カーサーは、東京裁判で天皇を起訴しないことを決めた。 天皇を裁くことで 起る大混乱を回避し、天皇を利用して、日本を治めることが、アメリカの国益 につながると判断したのである。

マッカーサーの「天皇の戦争責任と裁判」2015/08/03 06:27

 昨日、書いた話を、以前読んだ本で、補足しておく。

○袖井林二郎著『マッカーサーの二千日』(中央公論社・1974年)

 9月27日、昭和天皇がマッカーサー総司令官を訪れ、会見した折のこと。 『マッカーサー回想記』下(朝日新聞社・1964年)には、「天皇の口から出た のは、次のような言葉だった。『私は国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両 面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあ なたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした』」とある。 マッカ ーサーは天皇の言葉に深く感動し、「死をともなうほどの責任、それも私の知り 尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き 受けようとする、この勇気に満ちた態度は、私の骨のズイまでゆり動かした」 と書いている。 

○『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』(文藝春秋・1991年)

「寺崎英成御用掛日記」昭和21年1月31日(木)の、半藤一利さんの「注」。 「1月25日、マッカーサーは参謀総長アイゼンハワー元帥あてに、重要な電報 を送っている。それは天皇を戦争犯罪人とすべきかどうか、くわしく調査せよ、 と指令されていたことにたいする回答なのである。このなかで、天皇を戦犯と みなすに足る「特別かつ確実な証拠」はなにも発見できなかった、とマッカー サーは述べ、さらに天皇を戦犯にすることが不得策である理由を強調した。/ 「もしも天皇を裁判にかけるなら、占領政策に大きな変更が必要である。天皇 は全日本国民の統合の象徴である。天皇を破滅させれば、すべて失われること を確信する。……(天皇裁判が行われることで起る混乱を鎮めるためには)最 低百万の兵力を必要とし、しかもはかり知れないほど長年月の駐留が必要とな ろう。……」(意訳)」

寺崎英成、グエン、マリコと日米開戦2015/08/04 06:30

 「寺崎英成御用掛日記」で、いろいろなことを思い出した。  寺崎英成のことは、昭和55(1980)年に出版された柳田邦男さんの『マリ コ』(新潮社)で知った。 明治33(1900)年東京に生まれた。 昭和天皇の 1歳年長である。 旧福岡藩士で貿易商の寺崎三郎の次男、暁星中学から旧制 一高をへて東大法学部卒、昭和2年外務省に入り、外交官の道を進む。 兄の 寺崎太郎も外交官だった。 英成は米国、上海、北京などに勤務、ワシントン 日本大使館在勤中の昭和6(1931)年、テネシー州出身の米国人グエンドレン・ ハロルドと結婚、翌年上海で一人娘のマリコが生まれる。 昭和16(1941) 年、日独伊三国同盟締結以来、ますます絶望の色を深めた日米関係を、外交交 渉で打開すべく、元海軍大将の野村吉三郎が新駐米大使となった。 当時、ア メリカ局長で野村と同じ対英米協調派だった兄寺崎太郎は、英成を推して野村 大使を補佐させることとし、英成一家も3月21日野村大使とともにワシント ンに着任する。

 在米日本大使館1等書記官兼領事として開戦前の日米交渉にあたった英成と 太郎の兄弟は、太平洋をはさんで、しきりに電話で情報を交換する。 戦争回 避の願いをこめて、日米関係を意味する「マリコ」を二人だけのものとして、 「マリコは元気になりそうです。希望を持ってもいいと思います」というよう に、情報を伝え合ったという。 開戦前の11月18日付のFBIの報告は、寺崎 英成について、「かれは米国内における日本の諜報作戦に関する調整、指導に責 任をもっている」「寺崎がアメリカにおける日本のスパイの責任者の地位にあ る」と記しているそうだ。 11月15日、野村を助ける古参外交官の来栖三郎 特命全権大使が着任、27日のハル・ノートまで外交交渉の正念場が続いていた。 

11月下旬、寺崎とほかの2名の大使館員にブラジル転勤の内示が下りる。 極 度に情勢が険悪化するなかで、諜報活動はアメリカよりも南米で、と外務省が 考えたものだろう、という。 12月4日(ワシントン時間、以下同じ)には、 「一両日以内ニ出発セヨ」の指示電報もきていた。 6日夜、本務をはずれて いた寺崎とほか2名の、内輪の送別会が開かれた。 真珠湾攻撃のあった7日 の日曜日、寺崎は転勤前の休暇を与えられていた。 テネシー州から来ていた グエンの母、グエン、マリコとドライブをし、昼食ののち、映画を観るという 三人を降ろして、大使館へ行った寺崎が目にしたのは、奥村勝蔵一等書記官が 血走った目でタイプを叩き、野村と来栖が立ったり坐ったりしている焦慮の姿 だった。 寺崎は開戦通告遅延をふくむすべての事情を、のちになって聞かさ れた。 ワシントンの日本大使館が、もはや戦争という情況を、正確につかん でいなかったという外交的判断ミスと怠慢に、そのすべての原因があった。

 この日の日米開戦で、抑留された野村、来栖らとともに、寺崎一家が交換船 で帰国したのは、昭和17(1942)年8月20日だった。 兄の太郎夫妻が迎え てくれたが、太郎は東条英機内閣の下では働けないといって外務省を辞め、し ばらく浪人生活を送り、その時は鉄道省の事務嘱託をしているのだった。 そ して、戦時下の外務省は、知米派の寺崎英成を容れないところとなっていた。

戦中戦後の寺崎英成一家と歴史的資料の発見2015/08/05 06:35

 帰国後の寺崎英成一家は、兄の太郎や弟の平(たいら、国立立川病院院長を 務めた医師)に支えられてはいたが、戦時中の日本における生活が「敵国人」 のグエンにとって辛いものだったことは、言うまでもない。 終戦後、英成は 終戦連絡中央事務局に配属され、日本政府と占領軍総司令部との間の連絡業務 を担当したが、昭和21(1946)年2月には宮内省御用掛を命ぜられ、天皇陛 下の通訳官及びGHQに関わる諸問題についてのアドバイザー役を務めること になる。 天皇とマッカーサー元帥との会談に数回(最初の回は違うが)、単独 の通訳として立ち会っている。

 『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』の「はじめに」で、半藤一利さん は「御用掛としての寺崎が、満点の働きをしていることに驚かされる。フェラ ーズ(マッカーサー元帥の軍事秘書)をはじめ、政治顧問アチソン、副官バン カー、諜報担当官グリーン、さらに外交局長シーボルトらと、実に頻繁に交際 し、天皇の気持ちをGHQ(連合軍総司令部)に伝え、GHQの意向を宮中、政 府に伝える連絡係の役を十全にはたしている。そして身も心もすり減らした」 と書いている。 マリコ・テラサキ・ミラーは、同書の「記録の発見と公開に ついて」で、寺崎がワシントンでの日米開戦回避のための懸命の努力の無理が たたって健康を著しく損ねており、戦後は宮内省御用掛を務め、昭和26(1951) 年8月21日に脳溢血で他界した、と書いている。 グエンとマリコは、昭和 24(1949)年8月、病床に臥す寺崎の強い勧めに従って、主としてマリコの教 育のために渡米していた。 昭和33(1958)年母娘は、父の墓参とグエンの 書いた自伝『太陽にかける橋』(小山書店)のために来日、その時、弟の平に渡 された父の遺品の中に、貴重な記録が残っていたのだった。 マリコの息子コ ールが、知り合いの大学教授を通じて東京在住の日本現代史研究の権威に見て もらい、平成2(1990)年に「歴史的資料として稀有なもの」と判明した。 そ れが「昭和天皇独白録」「寺崎英成御用掛日記」である。 「独白録」は、昭和 21(1946)年の3月から4月にかけて、松平慶民宮内大臣、松平康昌宗秩寮総 裁、木下道雄侍従次長、稲田周一内記部長、寺崎英成御用掛の5人の側近が、 張作霖爆死事件から終戦に至るまでの経緯を4日間計5回にわたって、昭和天 皇から直々に聞き、まとめたものだった。 その存在と内容は、稲田周一宮内 省内記部長の『側近日誌』によって、断片的には知られていた。

 私は『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』に、平成13(2001)年12月 14日付朝日新聞朝刊の「切り抜き」が挟んであった。 記事には、こうある。 こ の「独白録」の原本とされる「聖談拝聴録」などの皇室関係文書について、内 閣府の情報公開審査会が13日、「それらの資料は存在しない」とした宮内庁の 非公開決定を妥当とする答申を出した。