原田達夫さんの句集『箱火鉢』2015/09/01 06:31

 原田達夫さんが句集『箱火鉢』を上梓され、ご恵贈いただいた。 原田さん は、『鴫』の同人、俳人協会会員。 実は、パソコン通信の頃から朝日ネットの 私のフォーラムでやっている句会に参加して下さっている。 お母さまも、そ の句会に90歳を越して投句して下さっていた時期があって、一度お会いした ことがあった。 『箱火鉢』では、その晩年が詠まれ、「母逝く」四句があるの が、とりわけ感慨深いものがあった。

 『箱火鉢』には、平成17年から今年までの句が収められている。 私の気 に入った句を挙げておく。 生と死を、素直に受け入れていらっしゃる。 そ こはかとない上品なユーモアも、とてもよい。

花を見てゐることは生きてゐること

くちぼその死は睡蓮の葉の上に

太刀魚をひかり引き抜くやうにかな

春の日の老人と鯉知己なりし

何を言うても笑む母の花の昼

勝鬨橋がつがつと揺れ冬に入る

粥柱口まではこぶ母白寿

蘭鑄の顔のつくづく知足たり

凛として母新月に旅立ちぬ

蛇穴を出づまづまづ存す日本国

下総の山並みやさし桐の花

銀漢に列なる漁りありにけり

悪尉になるやもしれず八十の春

『三田評論』8・9月号と竹田行之さん2015/09/02 06:29

 毎月『三田評論』の「寸評」を書いておられる深谷昌弘さんは、慶應三高校 の新聞部OB・OG会「ジャーミネーターの会」のお仲間だ。 短いスペースに 鋭い感想を盛り込むのは、ご苦労なことだと思う。 「寸評」ではないが、8・ 9月号を読んで、いくつか感じたことを書いてみたい。

 まず8月25日の「等々力短信」1074号「竹田行之さんを悼む」の竹田行之 さんのこと。 「社中交歓」「終戦の日」に、芹澤宏さん(十條板紙産商元役員) が「終戦の日前後」に竹田さんと日吉の現在の普通部近くの体育会寮で一緒だ ったことを書かれている。 終戦前年から日吉寄宿舎は海軍の司令部に接収さ れていて、寮生の数名が体育会寮に移っていた。 玉音放送は先輩の部屋で聞 いたが、よく聞き取れなかった。 竹田行之さんは、暑さの為、芹澤さん、河 内徹也さんと三人で、井戸水を浴びた想い出を書き残している、そうだ。

 都倉武之慶應義塾福澤研究センター准教授の「慶應義塾は戦争の歴史を語り うるか?―「慶應義塾と戦争」アーカイブ・プロジェクトの試み」。 「慶應義 塾は、塾の歴史を展示し常に確認することができる施設を持っていない。筆者 の調べた限り、福澤資料や義塾史資料を展示する博物館構想は昭和期に少なく とも三回あり、その都度、様々な要因で立ち消えとなった。近年でも記憶に新 しいところでは平成21(2009)年の福澤先生誕生記念会における年頭の挨拶 で、安西祐一郎塾長は、「世界に誇る福澤精神の原点を、誰の目にもわかるよう にすることのできるミュージアム」の必要に触れ、「これから時間はかかると思 いますが、旧図書館やミュージアムをどうしていけばいいのかといったことも、 考えていかなければいけない時期になった」と言及されたが、その後の動きは ない。」とある。

 ここでも私が思い出したのは、竹田行之さんだ。 平成13(2001)年1・2 月、銀座の和光ホールで「世紀をつらぬく福澤諭吉―没後100年」展が開かれ た。 『福澤手帖』にその展覧会について書くように、竹田さんが私のような 者に依頼されたのは、その頃、家業の工場を畳んだ私を励ます意味もあったの ではないかと思われる。 最後に、展覧会場を訪れているのは年輩の方々ばか りで、21世紀を担うべき学生・生徒がいなかったのは残念だった、「そこで提 案なのだが、このような展覧会を三田・日吉・藤沢で常設展示し、学生・生徒 が見られるようにしたらどうだろう。公開フォーラムを春秋に開いて、そのテ ーマと関連する展示をするのも一案だと思う。」と書いた。 実は、原稿には、 さらに突っ込んで、「旧図書館」をミュージアムにしたらどうだろう、とあった。  この部分について、義塾の事情に詳しい竹田さんに、いろいろ問題があるので、 削ったほうがよいと言われ、やむを得ず、そのようにした。 今回、都倉武之 さんの書かれているのを読んで、時代は自由にものが言えるようになっている のだと感じた。 なお、一般公開はされていないが、6月、福澤諭吉協会の見 学会で横浜初等部を訪れ、山内慶太さんが中心になってつくられた「福澤先生 ミュージアム」を拝見して、嬉しく思った(6月28日の当日記)。

前田富士男さんの「追悼・車谷長吉」2015/09/03 06:32

 『三田評論』8・9月号で、一番心に沁みたのは、「時は過ぎゆく」前田富士 男慶應義塾大学名誉教授(美術史)の車谷長吉さんの追悼文だった。 「三昧 場の思想、あるいは詩が小説をつつむこと」と、題されている。 前田富士男 さんの講演は何度か聴いたことがあったが、車谷長吉さんと親友だとは知らな かった。 前田さんは、昭和20(1945)年生れの車谷長吉さんと一緒に昭和 39(1964)年4月に慶應義塾大学に入学した(私は入れ違いに卒業)。 卒業 の3年後、仲間6人で同人雑誌『轆(ろく)』を出したという。 あと4人は 独文学研究高橋義人、精神科医北里信太郎、編集者の春日原浩と故・笠井雅洋 の各氏。 一号雑誌となったそうだが、車谷さんは力作「昭和二十年生まれ― ―天皇からの距離」(『女塚』2005年、所収)を寄せた。

 入学時に劇的な出会いをした、塾におけるもう一人の友人、のちに臨床心理 学者になった三好隆史さんは、車谷さんの関西での9年間の住所不定生活の時 代、病棟で水をはったバスタブに釣り糸を垂れる患者の箴言を伝え、小説書き もバスタブに釣り糸を垂れる仕事、あくまでも小説を書き続けよと励まして、 東京に戻ることを得させた。

 39歳で東京に戻り、堤清二氏の支援で社史編集の仕事についたものの、創作 に立ち向かう苦闘の月日であった。 ある日、危うい文言の速達を受けた前田 さんは、新潮社編集担当の鈴木力氏に連絡し、夜半二人で押し入れに無垢の木 鞘の小刀が投げ込んである、白山のアパートを訪ねたこともあった。 「当時 の私は微力ながら、この友人の幸不幸、功成るか成らずかを捨ておき、ともか く生を全うするように意を注いだ。およそ金銭の余裕などなかったが、車谷に ギリシアのアテネに旅するように、旅費はすべて工面するから、と何度かつよ く求めた。」

 そうしたつきあいは1993年まで続いた。 「この年、詩人高橋順子が彼の もとに現れる。あのときほど歓びに輝いた車谷は、ほかに知らない。愛情と信 義を分かちあえる歓びだったろう。私にも、深い喜びであった。なぜならそれ は、真正の詩人が小説家をつつみこむ、稀有の時にほかならなかったからだ。 以後、車谷とは安心して距離をとった。」

 「高橋順子の詩は、すべてをつつむ。しかも強く、やさしく。」 「海の舌は 億年岩をなめている/また会いに来ます 来られたらね と/ひとりごちなが ら 立ち去る/だるま山を越えて/いつもの荒い海のほうへ」(『海へ』2014 年)。 「荒い海を生きた車谷長吉。しかし車谷が詩の叡智につつまれた幸せを 思う。今素足で三途の川原に佇む友人に、声ひくく冥福を祈る。」と前田富士男 さんは結んでいる。

 『三田評論』8・9月号は、私のアリバイも証明している。 グラビアに7月 3日の三田演説館の第700回三田演説会で、質問者の前、真ん中に大きくメモ を取っているハゲアタマが写っている。 このメモは当日記の、7月13日「第 700回三田演説会、小室正紀さんの「工場法と福澤」」14日「福澤の近代社会 論、個人の自由独立と平等」、15日「福澤は初期に理想とした社会像を諦めな かった」となった。 10月号の予告には、講演録が載るとある。

咲かなかった今年の入谷朝顔2015/09/04 10:53

 もう20年ほどになろうか、毎年76日からの入谷子母神の朝顔市へ出

かけ、境内でプラスチックでなく竹の、行灯づくりを一鉢求めてくる。 苗は四本、別々の色が植えてある。 しばらくたつと、少し大きな鉢に移す。 ひと夏の毎朝、秋10月中旬まで楽しむことができる。

 

 それが今年は、異変が起こった。 こんなことは、今まで一度もなかった。7月はもちろん、8月になっても、極端に咲く数が少ないのだ。 7月末までの合計で、2012(平成24)年103個、2013(平成25)年107個、2014(平成26)年108個だったのが、今年2015(平成27)年は42個だった。 820

日までの合計で、2012(平成24)年235個、2013(平成25)年346個、2014(平成26)年272個だったのが、今年2015(平成27)年は77個だった。 入谷から何軒かにお送りするのだが、そちらでも咲かないという話があった。あんまり少ないので、下谷観光連盟・入谷朝顔実行委員会に、苦情というか、状況を聞いてみようかと、思っていた。 今年の夏は、極端な暑さだったから、そのせいなのではないかと、考えていた。

 

 824日(月)になって、ようやく暑さが一服した。 すると、24日は8

個、25日は今年最高の18個、以下31日まで、8個、6個、6個、5個、10

9個と咲いて、831日までの合計で152個となった。 色の内訳は、団十郎61個、赤が52個、桃色28個、空色11個の計152個。 過去の2012(平

24)年331個、2013(平成25)年437個、2014(平成26)年418個に比

べれば、半分以下だが、回復基調にはある。 やはり、酷暑のせいだったのだろう。 そして遅くなったからか、9月になっても、大輪のような気がする。(写真は8個咲いた91日のもの)

 

 それで問題は、いつまで、合計いくつ咲くだろうか、ということになる。 これまでの実績は、2012(平成24)年1015日の495個、2013(平成25)年916日の522個(台風で倒れ整理した)、2014(平成26)年1027日の724個だった。 下谷観光連盟・入谷朝顔実行委員会に苦情を持ち込むと、「恐れ入谷す」と言うかもしれない。

 

 実は、今年は酷暑だったという印象があるけれど、気象庁の気温のデータ(東京)を見てみたら、今年が際立っているということはない。 むしろ、2012(平24)年と2013(平成25)年の方が高いのだった。 他の年は年間、今年は91日までのデータだが、真夏日の日数は、201266日、201358日、201445日、201544日。 猛暑日の日数は、20126日、201312日、20145日、201511日。 平均気温30度以上の日数は、201211

日、201319日、201412日、20155日だった。 今年は観測場所が

大手町の気象庁の所から、北の丸公園に移った影響も若干はあるかもしれないが…。

 




柳亭市楽の「四段目」2015/09/05 06:37

 8月は、落語を書かなかった。 8月31日は第566回の落語研究会だった。   「四段目」      柳亭 市楽

「転宅」       古今亭 文菊

「祇園会」      橘家 圓太郎

      仲入

「宗漢」       柳家 喬太郎

「らくだ」      柳家 喜多八

 市楽は、師匠の市馬に芝居を観ろといわれるが、学生時代(早稲田)から観 ていたという。 寄席と時間が同じなので、なかなか観られない。 一幕見席 に並んでいたら、師匠から電話があった。 歌舞伎座の前だというと、それな ら芝居を観ろと言われた。 自分の中の悪魔がささやいた、「サボレルゾ」。 仲 間と飲んでいる時、師匠から電話があった。 つい、歌舞伎座の前だというと、 隣の奴が「イッキ!イッキ!」と叫んだ。  しか芝居、われもわれもという師匠連中が大勢いるから、師匠の市馬は歌い 手になった。 「菅原伝授手習鑑」で高い声でセリフを言う菅原道真の倅、菅 秀才(かんしゅうさい)を雲助師匠が演ったと、雲助の声色でやる。

番頭さん、貞吉はまだ帰ってこないのかい、と「四段目」に入る。 伊勢屋へ使いに出した芝居好きの小僧貞吉、戻って旦那に呼ばれる。 朝8時に出て、 今は午後4時、伊勢屋さんは目と鼻の先だ、芝居を観ていたんだろう。 帰る 途中で、おっ母さんに出くわした。 お父っつあんが、去年の秋から足腰の立 たない病になった。 お百度を踏んでいるというので、一緒に行った。 うち の方(かた)で、正月に年始に見えたのは、誰だ。 あれは、おっ母さんの連れ合いで…。 お前は芝居好きだと、みんなが言っている。 みんなは私の出 世を妬んで、そんなことを言う、私は芝居は嫌いです。 明後日、店一同で芝 居見物に行く、ちょうどよかった、お前は留守番だ。 御奉公ですから、行か せていただきます。 お向こうの佐平さんが芝居を見て来て、「忠臣蔵」の「五 段目」、猪の前足を松本幸四郎、後足を松下幸之助がやるだそうだ。 そんなこ とは、ありません、あれは一人でやるんです、今、あたい観ていたんですから。  やっぱり、芝居を観てたんだな。 あっ、ヤカンに謀られた。 蔵の中に、入 っていろ、ビシーーーン。 おなかペコペコ、お清どーん、何か食べるものを ……、あれ、行っちゃった。

怖いなあ、芝居の真似事でもするか。 「四段目」塩谷判官切腹の場、太棹 が「ベーーン」、上使二人に、力弥、判官様。 「力弥、力弥、由良之助は?」 「いまだ参上仕りませぬ」。 「デェーーン」、「デェーーン」、いよいよ切腹、 由良之助が花道から、ツツツツとそばに寄る、「御前ぇーーん」「由良之助か」。  いいとこだけど、おなかが空いた、死にそうだ、新聞に出るよ、横暴な雇い主、 いたいけな小僧を餓死させる。 お清が覗くと貞吉が腹を切っている。 慌て て「蔵吉どんが、貞の中で、腹を切ってます」。 旦那がおひつを持って駆けつ ける。 「御膳だ」「蔵の内でか」「やー、待ち兼ねた」。

市楽の「四段目」、なかなかの出来だった。