『三田評論』8・9月号と竹田行之さん2015/09/02 06:29

 毎月『三田評論』の「寸評」を書いておられる深谷昌弘さんは、慶應三高校 の新聞部OB・OG会「ジャーミネーターの会」のお仲間だ。 短いスペースに 鋭い感想を盛り込むのは、ご苦労なことだと思う。 「寸評」ではないが、8・ 9月号を読んで、いくつか感じたことを書いてみたい。

 まず8月25日の「等々力短信」1074号「竹田行之さんを悼む」の竹田行之 さんのこと。 「社中交歓」「終戦の日」に、芹澤宏さん(十條板紙産商元役員) が「終戦の日前後」に竹田さんと日吉の現在の普通部近くの体育会寮で一緒だ ったことを書かれている。 終戦前年から日吉寄宿舎は海軍の司令部に接収さ れていて、寮生の数名が体育会寮に移っていた。 玉音放送は先輩の部屋で聞 いたが、よく聞き取れなかった。 竹田行之さんは、暑さの為、芹澤さん、河 内徹也さんと三人で、井戸水を浴びた想い出を書き残している、そうだ。

 都倉武之慶應義塾福澤研究センター准教授の「慶應義塾は戦争の歴史を語り うるか?―「慶應義塾と戦争」アーカイブ・プロジェクトの試み」。 「慶應義 塾は、塾の歴史を展示し常に確認することができる施設を持っていない。筆者 の調べた限り、福澤資料や義塾史資料を展示する博物館構想は昭和期に少なく とも三回あり、その都度、様々な要因で立ち消えとなった。近年でも記憶に新 しいところでは平成21(2009)年の福澤先生誕生記念会における年頭の挨拶 で、安西祐一郎塾長は、「世界に誇る福澤精神の原点を、誰の目にもわかるよう にすることのできるミュージアム」の必要に触れ、「これから時間はかかると思 いますが、旧図書館やミュージアムをどうしていけばいいのかといったことも、 考えていかなければいけない時期になった」と言及されたが、その後の動きは ない。」とある。

 ここでも私が思い出したのは、竹田行之さんだ。 平成13(2001)年1・2 月、銀座の和光ホールで「世紀をつらぬく福澤諭吉―没後100年」展が開かれ た。 『福澤手帖』にその展覧会について書くように、竹田さんが私のような 者に依頼されたのは、その頃、家業の工場を畳んだ私を励ます意味もあったの ではないかと思われる。 最後に、展覧会場を訪れているのは年輩の方々ばか りで、21世紀を担うべき学生・生徒がいなかったのは残念だった、「そこで提 案なのだが、このような展覧会を三田・日吉・藤沢で常設展示し、学生・生徒 が見られるようにしたらどうだろう。公開フォーラムを春秋に開いて、そのテ ーマと関連する展示をするのも一案だと思う。」と書いた。 実は、原稿には、 さらに突っ込んで、「旧図書館」をミュージアムにしたらどうだろう、とあった。  この部分について、義塾の事情に詳しい竹田さんに、いろいろ問題があるので、 削ったほうがよいと言われ、やむを得ず、そのようにした。 今回、都倉武之 さんの書かれているのを読んで、時代は自由にものが言えるようになっている のだと感じた。 なお、一般公開はされていないが、6月、福澤諭吉協会の見 学会で横浜初等部を訪れ、山内慶太さんが中心になってつくられた「福澤先生 ミュージアム」を拝見して、嬉しく思った(6月28日の当日記)。