虚子の参禅、女流俳句萌芽の契機2015/09/14 06:26

松岡ひでたかさんの「虚子と雨村、そして釋宗演」に戻りたい。 雨村、神 津猛の父禎次郎は篤信者で、釋宗演は明治34年に長野県に赴いて臨済録を講 じたり、講演をした帰途、佐久の志賀村に黙翁 神津禎次郎を訪れているし、明 治44年には講話講演の機に一週間滞留、大正2年にも神津家に留まっている。  宗演との関係で「北信禅道会」を興した父禎次郎の影響で、猛も宗演に深く傾 倒し、交遊した。 それは猛の子供7男3女計10人中9人の命名が、宗演に よることにも窺われる(末子1名だけは宗演没後の誕生)。

一昨日みたように、雨村、神津猛は明治44年春から健康を害し、冬期は平 塚鎌倉に転地療養するようになり、高浜虚子との交遊が生まれていた。 大正 3年4月、虚子の6番目の子六が3歳で亡くなる。 その前後の虚子の苦悩を 見ていた雨村夫妻が、虚子夫妻に、釋宗演老師の下に参禅することを、しきり に誘ったのであった。 当時の宗演老師は、一切の事を円覚寺管長に譲って、 全く隠居の体だったが、その隠居所で雨村夫妻などごく親しい者数人に参禅を 許していた。 虚子夫妻も、その人達に加わって、参禅することになった。 虚 子と宗演は、この時が初対面ではなく、雨村庵の句会で会っている。 『ホト トギス』大正2年5月号の虚子の「其後の句作」に、そのことが記されていて、 「宗演老師の初めての句作」として<老僧の眉皆白し花祭 宗演>を挙げてい る。

「余滴の会」には残念ながらいらっしゃれなかったが、『虚子研究号 Vol.V』 に、小林祐代(さちよ)虚子記念文学館学芸員の「虚子に導かれた大正期女流 俳句の変遷」がある。 その冒頭に「虚子と神津夫妻との出会いが、女流萌芽 の原点」の項があった。 大正2年2月18日、雨村一族が暮す(扇ヶ谷)壽 福寺近くの仮住いを虚子と渡辺水巴が訪問、てう夫人(俳号・蝶女(私は前記 「虚子の一句」に長子と書いていた))、雨村懇意の東慶寺の禅僧とで句会を行 っている。 3月には雨村・蝶女夫妻が虚子庵を訪問、そのために虚子が糸夫 人に俳句の手ほどきを試みておいて、両夫婦一緒に句会をしている。 糸は明 治12年生まれで、数え年35歳、蝶女は糸より4歳年少、二人はほぼ同世代で あった。 <西山をめぐる日取りや春の雨 雨村><一しきり鶯の声春の雨  てふ女><今宵降る春雨の灯や町あかり いと子><昨日のもの今日春雨に又 来り 虚子>。 さらに虚子は、その4月初旬、三輪田高等女学校に通学して いた数え年16歳の長女・真砂子にも句作を勧めている。 小林祐代さんは、 虚子と神津夫妻との出会いが、女流俳句萌芽の契機となったと言っても過言で はない、としている。 松岡さんの「四 虚子と宗演」に、東慶寺参禅がどんなものだったかが書か れている。 虚子が昭和21年7月に記した、神津雨村句集『後凋』の「序」 に、「すゝめられるまゝに、二三回入室して見たが、父母未生以前本来面目、と いふような公案を老師は厳かな口調で出された」と書いている、という。

「父母未生以前本来面目」で思い出すのは、夏目漱石である。 実は、夏目 漱石が参禅したのも、釋宗演だった。 それは、また明日。