ジョン・レディ・ブラックの数奇な人生2015/09/17 06:30

 12日は、福澤諭吉協会の第124回土曜セミナーが交詢社の大食堂で開かれた。  奥武則法政大学社会学部教授の「ジョン・レディ・ブラックと近代日本のジャ ーナリズム」。 奥教授は、1970年早稲田大学第一政経学部卒業、毎日新聞社 に入り、学芸部長、編集局次長、論説委員長を務め、コラム「余録」を担当し た。 2007年4月から現職。 専攻は日本近現代史、ジャーナリズム史。 昨 年、岩波書店から『ジョン・レディ・ブラック―近代日本ジャーナリズムの先 駆者』を刊行した。

 私は以前からジョン・レディ・ブラックに関心があり、昨年4月、東京都写 真美術館で「没後百年 日本写真の開拓者」『下岡蓮杖』展を見た後も、このブ ログに4月25日から、下岡蓮杖の「横浜写真」、26日…ジョン・レディ・ブラ ックの写真入り週刊新聞、27日…J・R・ブラックの息子、快楽亭H・J・ブラ ック、28日…J・R・ブラックと福沢諭吉、29日…福沢家の家庭教師ブラック 母娘、30日…リゼーさん、エリザベス・ブラックのこと、を書いていた。

 奥武則さんの講演から、それらと重ならない新知識を書いてみたい。 ジョ ン・レディ・ブラックは、数奇な人生を送った人だった。 奥さんは、J・R・ ブラックが1926年1月8日に生まれたスコットランドのダイサートを始め、 移住した南オーストラリアのアデレードなども細かく現地調査し、教区教会文 書や結婚証明書からジェントルマンといえる階級の出であったことを、つきと めている。 アデレードでは、仲買人や船舶代理業など総合商社のようなビジ ネスを興し、商業会議所委員にも選ばれているが、1858年事業に失敗して破産、 歌手としての活動を始める。 スコットランド民謡など、抒情的な歌を歌った。  その年の暮、長男ヘンリー・ジェイムズ(快楽亭ブラック)が生まれているが、 破産して歌手になったという父親の血が息子にも流れていたのかもしれないと いう。 シドニーなど各地で「さよなら公演」をした後、インドに渡る。 イ ンドのシムラやムスーリーでフリーメイソン・ロッジに加入して活動している。  1864(文久4)年4~5月、香港、上海でコンサート活動をした後、8~9月、 横浜で連続公演をし、いったん上海に戻り、11月8日横浜にやって来た。 11 月、ハンサード商会の共同経営者になる。 アルバート・ウィリアム・ハンサ ード(1821~1866)は、1861(文久元)年6月22日に長崎で『ナガサキ・シ ッピング・リスト・アンド・アドヴァタイザー』を創刊し、その後継紙として 同じ1861年11月23日に横浜で英字週刊紙『ジャパン・ヘラルド』を創刊し ていた。

 『ジャパン・ヘラルド』創刊号の発刊の辞には、“the most THORUGH INDEPENDENCE”、“freedom from Government influence”、“a public medium of intelligence”などの言葉がある。 ジョン・レディ・ブラックは、 このハンサードから「ジャーナリズムの思想」を受け継いだ。