写真集『東京旧市街地を歩く』など2015/09/25 06:28

 9月になって、東京裁判や昭和史の本を返しに奥沢図書館に行ったら、「東 京の今と昔」みたいな本をテーブルに並べた企画があった。 それで佐藤洋一 『図説 占領下の東京』(河出書房新社・ふくろうの本)と、ついでに平岩弓枝 『東京暮らし 江戸暮らし』(講談社)を借りて来た。 接収されたたくさんの 建物の写真、道路や施設に名付けられた名前などが、興味深い。 平岩弓枝さ んは、代々木八幡の娘で、戸川幸夫、長谷川伸の弟子、27歳で直木賞を受賞し た。 それを返しに行って、冨田均『乱歩「東京地図」』(作品社)と、森岡 督行『東京旧市街地を歩く』(エクスナレッジ)を借りた。

 『東京旧市街地を歩く』は、2015年7月25日初版第一刷発行の写真集だ。  寡聞にして、森岡督行(よしゆき)さんと森岡書店を知らなかった。 1974 年、山形県生まれ、1998年に神田神保町の一誠堂書店に入社、2006年に独立、 茅場町の古いビルで写真集や美術書をメインにした古書店「森岡書店」を始め る。 今年5月「森岡書店 銀座店」をオープンしたが、そのコンセプトは「一 冊の本を売る本屋」、一冊の本から派生する作品を展示しながら、展示会の期 間中、取り扱う、売る本はその一冊だけなのだそうだ。 「作った人と買う(読 む)人が、売る場所でより近い距離感でいてほしい」という考えだ。 図書館 で借りてきて、すみません。

 そこで『東京旧市街地を歩く』。 写真は高橋マナミさん撮影。 旧市街地と は、旧神田区、旧日本橋区、旧京橋区。 現在の中央区と千代田区にあたるが、 中央区は旧日本橋区と旧京橋区が合併して出来た区で、千代田区は旧神田区と 旧麹町区が合併して出来た区(昭和22年)だ。

 旧市街地にある建物や橋梁などだが、細部に目をこらすと、いろいろと凝っ た飾りや面白い物がある。 ふだん如何に、ぼんやりと物を見ているかが、わ かる。 森岡督行さんが勤めていた一誠堂書店、ファサード(建物正面)の文 字は「店書堂誠一」で、入り口横の看板の脇にある旗立てには、五輪の装飾が ある。 昭和15年(皇紀2600年)に予定されたオリンピックに向けて設けら れたもので、おそらく現存するのは、ここだけだろうという。

 銀座4丁目交差点の和光本館、つまり服部時計店ビルの1階上の外壁部分に、 砂時計や機械式時計のムーブメントをモチーフにした装飾が並んでいる。 そ の中に「H」と「2541」を組み合わせたものがある。 私は、三越の二階の喫 茶店から、これを見て「H」は何かと悩んで、そうだ「服部さんのH」だと、 ようやく気付いたことがあった。 「2541」には気づかなかったが、この本で 皇紀2541年、西暦1881(明治14)年服部金太郎が服部時計店を創業した年だ とわかった。

 22日には、たまたま日本橋、1911(大正元)年建造の19代目を渡ったので、 ブロンズの欄干彫刻(渡辺長男)、麒麟像(中央)と獅子像(橋の袂)を見て来 た。 麒麟像の背中の羽は、日本の道路の起点である日本橋から飛ぶというイ メージを表して作られ、獅子像が持っているレリーフは東京市のマークだ。

 この本でなく最近知ったことだが、東京府と東京市が廃止されて、東京都に なったのは、1943(昭和18)年7月1日と新しい。 戦時体制強化と国家統 制拡大のための地方自治制約の一環として、「帝都」の行政を一元化したのだ。  橋下徹さんの大阪都構想は、ここから来ている。

「もう一つの中勘助」<等々力短信 第1075号 2015.9.25.>2015/09/25 06:30

小学校に上がるか上がらないかの頃、兄を教えていた家庭教師の商大生に、 『銀の匙』を読んでもらった。 以来、中勘助に関心を持ち続け、何でも知っ ているような気になっていた。 とんでもないことであった。 菊野美恵子さ んが岩波書店の『図書』に、5月号から連載している「もう一つの中勘助」に は、驚くべきことが書いてある。

大河ドラマ『花燃ゆ』に、吉田松陰の弟子、入江九一(要潤)と野村靖(大 野拓朗)の兄弟が登場した。 入江九一は、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿と ともに、松陰弟子中の四天王といわれたが、蛤御門の変で、膝を撃たれて自刃 の覚悟を決めた久坂の髪を微笑みながら直してやり、その直後、討ち死にした。  野村靖は、28歳の若さで死んだこの兄を悼み、自分の次男貫一に兄の姓を継が せた。 この入江貫一が、連載の筆者・菊野美恵子さんの祖父である。 野村 靖は、廃藩置県に力をつくし、岩倉使節団の一員として訪米、子爵に叙せられ、 逓信大臣を務めた。 中勘助のただ一人の兄、14歳年上の金一は明治35年、 野村靖の5女、末子と結婚する。 入江貫一の妹である。

 一高、東大を出、ドイツ留学の後、福岡医科大学(後の九州帝国大学)教授 という得意の絶頂にあった金一が、明治42年岳父野村靖の葬儀に上京してい て、脳溢血で倒れる。 39歳だった。 勘助は帝国大学英文科を出たての24 歳、父勘弥は4年前に亡くなり、不治の兄と老いていく母鐘(しょう)の世話 をする2歳年上の兄嫁末子と二人で、同志となり、戦友となり、以後40年間、 家を背負っていかざるを得なくなる。

 野村靖には、多勢の子、孫がいたが、この娘婿の弟という、遠い関係とも言 える勘助をとても可愛がっていた。 野村、入江両家の人々は、靖の妻花子の、 誠に穏やかな明るい性質を受け継いだものか、バランスの良い常識人が多かっ たという。 勘助は家の問題で病み疲れ、兄金一の暴力は激しい。 そのため 兄嫁末子は実家の別荘に勘助を避難させる。 小田原の野村別荘は広く、人手 もあったため、末子の姉久子の子供たちなど、数多い親類の子供たちが夏休み 中いりびたっていた。 勘助は、そんな幼く愛しいものたちを可愛がり、のち のちも手紙のやりとりなど、温かい交流が続いている。

 当主靖の死後、野村家を実質的に仕切ったのは長女久子、勘助より17歳年 上、後の外務大臣で子爵本野一郎の妻、自身、後には愛国婦人会会長を務めた。  妹末子の一大事、あれこれと中家に忠告し、勘助にも早く「正業」につくよう にと促した。 何回目かの「おせっかい」に勘助は激怒して、久子に絶交状を 送った。 久子は意にも介さなかった。 他にも善意からアドバイスをした野 村、入江家の人々は、このハリネズミのように毛を逆立てた若者から剣呑な手 紙をしばしば送られていたという。