鎌倉「海側のまちづくりの歴史」 ― 2015/11/14 06:29
『ブラタモリ』#5「鎌倉」の後半は、「海側のまちづくりの歴史」。 材木座 海岸の小坪・逗子寄りの端に案内役、神奈川災害考古学研究所の上本進一さん が現われた。 波打ち際で、NPO鎌倉考古学研究所の古田土俊一さんが、何か 拾っている。 鎌倉時代の器の破片、かわらけ、青磁などが、難なく見つかる。 遠浅の海で、川を流れて来たものが、ここらに打ち寄せられるのだという。
その先の突堤の付け根に、大きな石がごろごろしている(干潮時)。 鎌倉に は天然の良港がない。 そこで鎌倉時代(貞永元(1232)年)、港がつくられ た。 和賀江嶋(わかえじま)、現存する「日本最古の築港跡」だそうだ。 グ リーンの石は丹沢からの凝灰岩、赤い石は伊豆・箱根から運び、波が削った岩 盤(波触台)の上に積み、1か月足らずで築港したといわれる。 人海戦術だ ったろう。 鎌倉の海の拠点となった。 (「材木座」の地名は、文字通りここ が遠方から運ばれた建築資材を取引する場であったことを物語る。)
港をつくったことで、鎌倉の地形が変わった。 材木座6丁目13では海抜 3.7メートルなのに、5丁目12では海抜6.2メートルと高くなっている。 こ こは砂丘の上になる。 和賀江嶋をつくったことで、砂が多く溜り(堆積)、そ の砂が風によって運ばれ、沿岸の砂丘が成長した。 材木座砂丘の地形を、そ の名に記憶する「そば処 土手」というお店があった。
若宮大路の鎌倉警察署横にある鶴岡八幡宮の「一ノ鳥居」に立つと、そこが 由比ヶ浜砂丘の頂上で、海の方にも、八幡宮の方向にも、下がっていることが わかる。 ここが鎌倉時代の都市「鎌倉」=「鎌倉中」の境界で、海側は「前 浜」と呼ばれ、人が住まず、処刑場などがあり、今でも掘ると人骨が沢山出る そうだ。
『ブラタモリ』#5「鎌倉」、「もともとはさまざまな弱点を抱えていた鎌倉、 でも800年前の人たちは、山や海の地形をうまく利用して「武士の都」をつく りあげた。 そのすばらしい「まちづくり」がよくわかった旅だった」という のが、結論だった。
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