難攻不落の鎌倉、ついに滅亡2015/11/15 06:48

 モノクロの岩波写真文庫の後、カラーのしっかりした造本でIWANAMI GRAPHICSというシリーズが出た。 その25が永井路子・文、松尾順造・写 真の『鎌倉―中世史の風景』(1984年)だった。 書棚に置いて、折にふれて 眺める。 『ブラタモリ』で「前浜」には処刑場などがあり、今でも掘ると人 骨が沢山出ると言っていたが、この本を見ると、鎌倉にはどこを掘っても人骨 が沢山出そうな、凄惨な歴史が埋もれていることがわかる。 表紙は北条高時 腹切やぐら、本扉はまんだら堂だ。 

 [堅城鎌倉] 「幕府は鎌倉を無類の堅城として自信を持っている。その名 残りをしめすのは、鎌倉東部、法性寺(ほっしょうじ)裏の大切岸(おおきり ぎし)だ。(「まんだら堂」はここにある。)人工的に削りとられた大断崖は外部 からの侵入をきびしく拒んでいる。わずかな連絡路は名越道(なごえみち)で、 狭く、かつ峻険な坂道が続く、人も馬もこれらは一列でしか通れない。」 「西 の守りは稲村ガ崎である。自動車を通すためにむざんに切りとられた丘陵部を もう一度復原して眺めていただきたい。そしてその波打際といえば、ぬるぬる と足をすべらせそうな岩に、間断なく波が襲いかかってくるのである。」

[難攻不落] 「東と西を岬と断崖で固め、さて、内部に入るのは、すべて 尾根づたいの坂道である。鎌倉七口は京都七口と違って、人を入れる口という よりも、入ることを拒むための急峻なのである。」 「極楽寺坂も思いきりよく 切りとられ、昔の姿はないが、道の片側にある成就院の参道の傍に、いたちで も通るほどの細い道の名残りがあるが、これが旧道だという。」「このあたりに 立ってみると、鎌倉の海岸から市中が手にとるように見渡せる。鎌倉攻めにあ たった新田義貞が、ここを狙ったのもよくわかる。そのために干潮を利用して、 稲村ガ崎を迂回したのである。」 「難攻不落の武士の都の攻防は凄絶をきわめ た。化粧坂も極楽寺坂も無数の血で彩られた……。」

 [草青みたり・死の美学] 「鎌倉は怒号と血と炎の中に燃えつきる。平家 の都落ちとは何たる違いであろう。」 長崎高重は徹底して奮戦し、やがて本拠 に戻って自刃する。「その本拠は東勝寺。北条氏の本邸の奥にあり、滑川を自然 の堀にした、寺というより詰の城だった。そこで主権者高時以下、870余人が 館に火をかけて切腹するが、それは絶望の自殺ではない、――死んでも首は取 らせるものか、とわれとわが身を灰にする抵抗の死だ。」 「近年の東勝寺跡の 発掘によって、むしろ城砦とも呼ぶべき遺構の軍事的性格が明らかになるとと もに、まざまざと焼土層が確認されたのだ。いまは埋め戻された跡地に草は青 み、人影もない。」

 [幽魂縹渺・腹切やぐら] 「惨たる戦禍であった。敵味方の戦死者数千、 浜辺にも埋められたし、東勝寺に程近い北条氏ゆかりの釈迦堂跡からも、人骨 と鎌倉滅亡から数えて初七日にあたる元弘3年(1333)5月29日の銘を刻ん だ五輪塔が発見されている。」 「東勝寺跡の発掘によって、高時最期の地と伝 える「腹切やぐら」はいささか伝説化してしまったが、ここも寺域内だったこ とを思えば、葬送の地でなかったとはいえないのである。」 「権力の集中も軍 備の強化も決して勝利にはつながらない――地下の幽魂は、いまも樹の蔭に縹渺と漂いつつ、そう言いつづけているのではないだろうか。」