吉祥寺を覗く、由緒ある寺だった ― 2015/11/22 07:19
「三遊亭兼好独演会」の帰り、会場の本駒込地域活動センターと東京メトロ 本駒込駅の間にある吉祥寺を覗いた。 立派な寺である。 諏訪山吉祥寺の石 柱の立つ、四本柱の山門には「栴檀林」の門額がかかる。 山門をくぐって、 本堂に向って、長い参道の両側は桜並木、手前に帰り花の咲いている木がある。 参道の両側は墓所になっている。
森まゆみさんが新潮社のPR誌『波』に連載している「子規の音」の第十回 「雀より鶯多き根岸哉」(2014年11月号)の書き出しがこうなっていた。 「朝 の散歩をして、駒込吉祥寺境内で我流の体操をして腰をひねったら、青空の向 こうに細長い高い墓が見えた。鳥谷部春汀(とやべしゅんてい)、このひとは南 部藩士の子で、陸羯南の人物評を「古処士の風あり」と書いている。近衛篤麿 と親しかったところに陸との接点があるが、四十四歳でなくなっている。」
「春汀 鳥谷部銑太郎墓」は、参道の右側すぐ脇にあった。 明治24(1891) 年に東京専門学校(現、早稲田大学)を卒業、郷里で政治運動をしていて、遊 説中の島田三郎に認められ、明治26(1893)年毎日新聞社に入社し、社説を 担当する。 日清戦争中に清国開導策「支那問題」を連載。 明治28(1895) 年に近衛篤麿主宰の『精神』(同年『明治評論』と改題)に移って、人物評論家 としての地歩を築き、明治30(1897)年から総合雑誌『太陽』の記者となり、 明治36(1903)~明治42(1909)年は主筆として時事評論に健筆を振るい、 「人物月旦」(人物評)の第一人者として一世を風靡した。 他面、音楽の学理 に通じ、尺八も巧みだったという。 鳥谷部春汀による「福沢諭吉」評は、ま た改めて書くことにする。
川上眉山(びざん)の墓もあった。 明治2(1869)大阪生れ、明治41(1908) 年自殺、39歳。 東大中退の小説家、尾崎紅葉、山田美妙らと硯友社を興す。 明治21(1888)年、『我楽多文庫』に処女作「魂胆秘事枕」を掲載、その後は さまざまな戯文が評判となった。 美文、観念小説で知られる。 作品に「墨 染桜」「大盃」「書記官」「うらおもて」「観音岩」「ゆふだすき」、放浪の旅に出 ての三浦半島紀行「ふところ日記」など。
参道の左側には、「(八百屋)お七・吉三郎の比翼塚」、「二宮尊徳の墓碑」、「釈 迦如来坐像」などが見られた。 比翼塚とは、相思の男女を、いっしょに葬っ た塚。 お七は、本郷追分の八百屋太郎兵衛の娘、天和2(1682)年12月の 大火で焼け出されて駒込の正仙寺(一説に白山の円乗寺、お七の墓はここにあ る)に避難した際、寺小姓の生田庄之助(一説に左兵衛)と情を通じ、実家が 再建されて戻った後、恋慕のあまり、火事になれば会えるものと放火、捕らえ られて鈴ヶ森で火刑に処せられたと伝える。 この巷説は西鶴の「好色五人女」 などで流布し、相手を小姓吉三(吉三郎)として浄瑠璃や歌舞伎に脚色された。 「(八百屋)お七・吉三郎の比翼塚」は、文学愛好者が建てたものらしい。
吉祥寺にはまだまだ、大名家の松前家、鳥居耀蔵、榎本武揚、赤松則良など の墓もある。 ところで吉祥寺、わが家と同じ曹洞宗とは知らなかった。 室 町時代の長禄2(1458)年に太田道灌(持資)が、江戸城築城に際し和田倉付 近の井戸から「吉祥」と刻銘した金印を得、これを瑞祥として青巌周陽を開山 に招いて、江戸城西の丸に創建した。 のちに徳川家康の関東入府にともない、 天正19(1591)年駿河台(現在の都立工芸高校の周辺)に移り、明暦3(1657) 年の大火で類焼、現在地に移ったのだそうだ。 禅学の中心道場、僧侶の養成 機関として「栴檀林」(駒沢大学の前身)を持ち、1千余名の学僧が学び、幕府 の昌平坂学問所と並び称されたという。 たいへんな寺なのである。 なお、 中央線の吉祥寺、武蔵野市のそれは、明暦の大火で駿河台の吉祥寺門前町の住 民を移住させ、新田を開拓させたことに由来し、だから寺はない。
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