鳥谷部春汀の「新聞記者・福沢諭吉」2015/11/23 06:16

 ひょんなことから、福沢諭吉である。 鳥谷部春汀の「福沢諭吉」評が、伊 藤正雄編『資料集成 明治人の観た福沢諭吉』(慶應通信・1970年)にあった。  「新聞記者としての福沢諭吉翁」と「福沢諭吉翁」の二つ。 ここでは前者を 取り上げる。 明治29年10月『明治評論』5の10に掲載され、明治31年刊 『明治人物評論』、『春汀全集』2巻所収。 少し、意訳してみる。

 まず、教育家としての福沢は世に既に定論があるが、むしろ新聞記者として 適当な資質と伎倆を持っている。 だから門下生で最も善く福沢の感化を受け た者は、新聞界で活躍したり、一度は新聞記者を経験した者が多い。 福沢が 初期に発表した意見文章も、おおむね新聞的趣味を帯びていて、例えば『西洋 事情』は海外通信だし、『時事小言』は好個の新聞論説だ。 福沢は『時事新報』 を起す前に、既に新聞記者の思想を以て、日本の文明を指導し、新聞記者の感 情を以て三田の塾生を薫陶した。 福沢は実に天生の大新聞記者である。

 福沢の文章は、時分の神品(現在の、人間のものとは思えないほどのすぐれ たもの)ではない。 荘重な点では陸羯南の文調に及ばず、精刻さでは碌堂(朝 比奈知泉)の筆鋒に及ばない。 しかしながら、宛転(えんてん・よどみなく 調子よいこと)軽妙、情理を兼ね備えて遺憾なきにいたっては、後進文士の遠 く及ばないところだ。 世間には福沢の文章の通俗な点を気にする者がいる。  しかし、通俗の中に一脈の雋気(しゅんき・優れた勢いや働き)あり、淡々と して奇のない間に詩味嫋々(じょうじょう・しなやかなさま)の姿態を帯びる のは、福沢独特の妙所であって、市井の俗語を改めて使って、よく内容を伝え る詩語にしたりするのは、尋常一様の筆力ではない。 ロンドン・タイムスの 文章も、通俗であって反(かえ)って趣味がある。 福沢の文章の日本文壇に おける位置は、タイムスの文章の英国文壇における位置のようなものだろうか。

 福沢の文章を一見すると、着筆してから一気呵成の趣きがある。 しかしな がら、仔細に熟読すれば、曲折あり、波乱あり、巧詆(こうてい・たくみにそ しる)あり、諧謔ありだ。 しかも用意がきわめて精緻で、経営惨憺(苦心さ んたん)の跡が見える。 決して平淡一方の筆ではない。 要するに、福沢の 文章は、深奥なる学理を論述する学者の文体ではなくて、自然に新聞記者の文 体なのである。