築地の「日本近代文化事始の地」記念碑二つ2015/11/24 06:29

 21日に、慶應志木高新聞部の創刊から3年間のメンバーのOB会が神楽坂で あった。 何か福沢諭吉の話をしてくれないかといわれたので、先月の慶應志 木会・歩こう会にからめて、築地の聖路加看護大学前にある「日本近代文化事 始の地」二記念碑の話をした。 聞いてくれたメンバー7人の内、「慶應義塾発 祥の地」記念碑に行ったことのある人は、1人だった。 ここは昔、築地鉄砲 洲(現在は明石町)といって、福沢の出た中津藩奥平家の中屋敷があった。 上 屋敷は木挽町汐留(現在の銀座8丁目)にあり、初めて江戸に出て来た福沢が、 まずそこに着いたことは、『福翁自伝』にある。 われわれが慶應志木高新聞を 印刷してもらっていた時事印刷所は、ちょうどそのあたりにあった。 偶然な のかどうかは、わからない。 『福翁自伝』は、「木挽町汐留の奥平屋敷に行っ たところが、鉄砲洲に中屋敷がある、そこの長屋を貸すと言うので住み込んで、 藩命で始めたのが慶應義塾の起源となった蘭学塾である。 安政5(1858)年 の冬のことだった。

 幕末近く、日本をめぐる国際情勢は緊迫し、安政の大獄が起ころうかという 時期である。 中津藩でも、洋式の軍備や砲術、蘭学を学ばなければならない という考えの人がいたのだ。 大坂の適塾に福沢諭吉がいて、塾長などをして いる、江戸に呼び寄せて蘭学教授をさせようということになった。 しかし中 津藩でも開国派と攘夷派の対立があり、中津の国元でも、攘夷論が強く、それ は怖い。 福沢を呼んだ江戸定府の上士岡見彦三(佐久間象山に西洋砲術を学 んだ)は、福沢に「目立たないように教えてくれ」と言い、世間におおっぴら にはしない教え方を求めた。 それで時の年号により慶應義塾を名乗る慶應4 (1868)年まで、無名時代があるという(河北展生さん)。

 築地のもう一つの碑は、「蘭学の泉はここに」記念碑である。 福沢が中津藩 中屋敷で蘭学塾を始める87年前の明和8(1771)年、同じ中津藩中屋敷内の 前野良沢宅で、良沢が杉田玄白、中川淳庵らとオランダの解剖書『ターヘル・ アナトミア』翻訳を苦労して始めたことを記念するものだった。 中津藩には 蘭学の伝統があったのだ。 「豊前・中津医学史散歩」という副題のある川嶌 眞人著『蘭学の泉 ここに湧く』(西日本臨床医学研究所・1992年)に、こうあ る。 中津奥平家三代藩主昌鹿(まさか・1744~80)は、母親の脛骨骨折が治 らず困っていたが、江戸に来ていた長崎の大通詞・吉雄耕牛に治療を頼んだ所、 あざやかに全治させたので、蘭学に心服した。 それで明和7(1770)年、藩 医前野良沢を長崎の吉雄耕牛のところへ留学させた。 昌鹿は殊の外良沢をか わいがり、藩医の本務を怠りがちで、人にも交わらずひたすら蘭学に打ち込む のを告げ口する者にも、あれはオランダの化物だからうっちゃっておけといっ たので、良沢は蘭化と号したという。 『ターヘル・アナトミア』やポイセン の『プラクテーキ(内科治療の実際)』を買って、良沢に貸し与え、その蘭学研 究を励ましたのも昌鹿だった。 良沢は長崎で学んだ翌年、千住小塚原での「腑 分け」に立ち会って感動、わずかなオランダ語の知識ながら『ターヘル・アナ トミア』翻訳の中心となり、文字通り「蘭学事始」のルーツになった。

 というわけで、ペリー黒船来航後の幕末近く、福沢諭吉が長崎で蘭学修業し たり(1854)、兄が死んで家督を相続したにもかかわらず砲術修業と称して大 坂の緒方洪庵の適塾への再度の遊学を許可されたり(1856)、適塾で塾長を務 めているのを蘭学塾を開くようにと藩命で江戸に呼ばれたりした(1858)下地 は、中津藩に十分にあったのだった。