一朝の「大工調べ」前半2015/11/06 06:31

 噺の方には、よく江戸っ子が出てきます。 口先ばかりハラワタはなし。 塩 辛はつくりにくかった。 江戸っ子の代表が、お職人。 読み書きの出来ない 連中が多かった。 留の野郎、字が読める、書ける、ソロバンも弾くんだって よ。 だから、仕事がまずいんだ。 大工の山田喜三郎さんは、このお長屋で しょうか? 山田喜三郎……、知らねえな、隣が大工だから聞いてやろう。 お い、きさっぺ、山田喜三郎を知らねえか、大工だってんだが。 なんだ、侍み たいな名前つけやがったね。 山田喜三郎…、山田喜三郎…、ああ、俺だ。 こ の野郎だそうですよ。 てえへんな野郎だ、そんな悪党だったのか。

 職人気質で、腕に誇りがある。 細工は流流、仕上げを御覧(ごろう)じろ、 という。 何で与太、仕事に出てこねえんだ。 体でも悪いのか。 すこぶる 丈夫で…、道具箱がねえ。 持ってかれたって、大工の命だよ。 夜か、留守 にか? 昼間、居て、持っていかれた。 ツラ、憶えているか? 今朝も、井 戸端で出っくわした。 つかまえたのか? 後ろから、おはようございます、 って言った。 家は知ってるのか? 前から知ってる、表通りへ出る左の角だ。  大家の家じゃねえか、店賃、溜めやがったな。 当たった。 お袋はどうした?  乾物屋に赤ん坊が生まれて、手伝いに行ってる。 いくら、溜めた? 一両と 八百。 これだけ、持ってけ。 トウリュウ(棟梁)が出してくれるのか、い い心がけだ。 トウリュウ、一両しかねえな。 一両と八百なんだろ、一両で いいだろう。 同じか。 いいずくによれば、只でも取れるんだ、八百ぐらい 御の字だ、アタボウだってんだ。 アタボウって何だ? 当りめえだ、べらぼ うめ、ってことだ。 相手は町役だ、よくワケを話して、謝るんだ。

 やい、大家、いるか。 婆さん、裏の馬鹿野郎だ。 面と向かって呼びつけ にしやがる。 ごめんくださいまし、って言うんだ、店賃か。 店賃、ここに 持ってる(と、銭を投げ出す)。 (拾いながら)おい、与太、一両しかないぞ、 あと八百はどうした? アハハハハ、大変だ、八百はアタボウだ。 アタボウ とは、何だ。 アタボウを知らねえな、俺も知らなかった、当りめえだ、べら ぼうめ、ってことだ。 あと八百持ってこなきゃあ、渡せねえよ。 一両は、 内金として預かっとくよ。

 道具箱はどうした。 アタボウ、流行らないな。 よく、言ったんだよ。 当 りめえだ、べらぼうめって、噛んでふくめるように言ってやった。 それ、や ったのか、楽屋話だ。 取り上げ婆アか。 取り上げ爺イだ。 俺が一緒に行 ってやるよ。

 ごめんくださいまし。 何だ、棟梁じゃないか、何で裏から来るんだ。 婆 さん、政五郎さんだ、布団を出せ。 寝る布団じゃない、茶を出せ。 いつも 婆さんと噂して、いい親方になりなさったって、言っているんだ。 お連れさ んかい、どうぞ、こちらへ。 与太か。 何かあの馬鹿野郎のことで、口でも 利こうと来たのかい。 面倒の見甲斐のない、箸にも棒にもかからない馬鹿だ ぞ。 仕事をさせると、ウチの若い衆の中で、一番いい腕をしてるんですが、 馬鹿なおしゃべりをしたようで。 道具箱を渡してやっていただけませんか。  お持ちなさいと、言いたいんだが、あと八百はどういうことにしようかね。 こ いつの為にもならねえんで、こいつに稼がして、お返ししようと思いますんで、 たかが八百ばかりで。

 婆さん、お茶はいいよ。 たかが八百だって、俺にとっては大金だ、地べた を掘っても出て来ない。 あと八百、持って来ておくれ。 びた一文欠けても、 道具箱は渡せねえ。 あと八百、あとでウチの奴に放り込ませやしょう。 銭、 放り込まれたら、当って怪我をするかもしれない。 それじゃあ、あっしの顔 が立たない。 立たない顔なら、袋かぶせて、横にしときな。 そんな、因業 な。 この界隈きっての因業大家で通っているんだ、帰ってくれ。 すんませ ん、わっしが悪かった、わっしが頭を下げて頼んでるんですから、返してやっ てくれませんか。 頭を上げてくれ、私は町役だよ、お前は大工、雪隠大工じ ゃねえか。 あと八百、持ってきな、帰れよ、渡さねえったら、渡さねえんだ よ。

 いらねえよ。 何て言ったんだ。 ヤイ、チキショウ、イラネエヤイ!!(と、 大声) 婆さん、逃げるんじゃない。 大きな声を出すな。 大きな声は、地 声だ。 この丸太ン棒、金隠し!! 丸太ン棒てぇのは何だ? 血も涙もねえ 野郎だから、丸太ン棒だ。 金隠しは? 四角くて、汚えツラだから、金隠し だ。 昔のことを忘れるな。 てめえはな、どこの馬の骨だか、牛の骨だかわ からねえ人間で、この町内に流れてきやがって、洗いざらしの浴衣一枚で使い 奴やってたんじゃねえか、みんなが可哀そうだからって、源六さん、この手紙、 あっち持ってけ、こっち持ってけってな。 六兵衛番太が死んだから、そこに いる婆ア、六兵衛のカカアの所に、芋洗いましょう、薪割りましょうとか、お べっか使って、ズルズルベッタリにへえり込みやがって、爪に灯を点した金を 貧乏人に貸して、地主の株を買って、家主だとか町役だとかいわれることにな ったんじゃないか。 六兵衛の焼芋屋は、本場の芋でもって、薪を惜しまねえ から、ふっくらして旨かったのに、てめえの代になってからは、バチな芋を使 いやがって、薪も惜しむから、ゴリゴリで、てめえンとこの芋食って、腹下し て死んだ者ァいくらもいらあ。

 与太、前へ出ろ。 もう、帰ろうよ。 構わねえから、お前も、言ってやれ。  こんにちは。 どんどん毒づいてやれ。 大家さん。 大家でいいんだ。 大 家、オヤ、オヤ。 大家、大家のくせに、店賃取りやがって、ずうずうしい。  ずうずうしかねえ。 この町内に流れてきやがって、大水で。 こんな立派な 大家さんになって、おめでとうございます。 何、言ってやがんでえ。

一朝の「大工調べ」後半2015/11/07 06:20

 大工の政五郎、与太郎を連れて、おおそれながらと、奉行所に訴える。 ふ つう、こんな些細なのは、取り上げなかったそうだが、何度も、何度も、願い 出た。 「与太郎こと、家主源六に、二十日あまり道具箱を留め置かれ、老母 一人養い難し」というので、差紙がついて、一同、町役五人組同道で、お呼び 出しになり、控所で待つ。 「入りましょう!」の声で、お白洲へ出る。 正 面、一段高いところにお着座になったのはお奉行で、左右は目安方、立会(つ くばい)の同心一同、朱総の十手を手に控えている。

 神田小柳町家主源六、ならびに店子与太郎、差添人、神田竪大工町大工職政 五郎、詰め合いの者、来ておるか? ハハーッ。 与太郎、面(おもて)を上 げろ。 顔を上げるんだ。 その方、何歳になる? (政五郎が)二十六だろ。  そうかもしれない…、二十六。 願書の趣きによると、二十日も道具箱を留め 置いたというが、家主源六、なぜ留め置いたか? 店賃がたまりまして、抵当 (かた)に預かりました。 一両八百のところ、一両持って参り、八百はアタ ボウだ、いいずくによれば、只でも取れるなどと申します。 町役人に、かか る悪口を申すはずがない。 与太郎、言ったのか? 言ったんです。 しよう がないな。 アタボウ、教えてやった。 政五郎、一両を貸し与えて、なぜ八 百貸さなかった、仏つくって魂入れずではないか。 政五郎、八百、与太郎に 貸してやれ。 源六は、その八百を受け取って、道具箱を返せ。 立てィ! 勝 った、勝った、と源六。

 与太郎、尻押しに八百借りてこい。 悔しいな。 源六、八百持って来たよ。  墨付き(済み口)の書面が出来た。 再び一同ぞろぞろと、お白洲に入る。 時 に源六、奉行尋ねたいことがある。 店賃一両八百の抵当(かた)に道具箱を 預かったというが、その方、質屋の株は所持しておろうの。 いかがした、質 屋の株を所持していない者が質草を取るのは、ご法度である。 町役が知らぬ はずはない。 質株は所持しておりません。 上(かみ)を畏れぬ奴だ。 本 来、咎めを申しつくべきところなれど、願い人が店子ゆえ、過料にて許しつか わす。 政五郎、大工の手間は日にいくらになる。 最近、上がっちゃいまし て、大まかに日に十匁でございます。 日に十匁、二十日で二百文であるな、 金で三両三分三朱になる。 源六、その金を与太郎にとらせよ。 日延べ猶予 は相ならん。 立てィ!

 与太郎、行ってもらって来い。 お奉行様も言っていたろう、日延べ猶予は 相ならん。 持ってけ。 棟梁、もらってきたよ。 墨付きの書面が出来て、 またぞろぞろと、お白洲に。

 源六、三両三分三朱払いつかわしたか。 さようか。 政五郎が預かったか。   源六、縁あって店子と相成りおる与太郎の面倒をよく見てつかわせ、政五郎 も、与太郎が立派な職人になるように、よく面倒を見てつかわせよ、よいな。  一同の者、立ちませえ。

 あっ、これ、政五郎だけ、ちょっと待て。 一両と八百の抵当に、日に十匁 の手間、こりゃあ、ちと、儲かったろう、「さすが大工は棟梁」。 「へえ、調 べをごろうじろ」

池田弥三郎さんの育った家、芸能と宗教2015/11/08 07:19

 10月26日、毎年聴きに行く折口信夫・池田弥三郎先生記念講演会があって、 三田キャンパスの東館、例の三田通りに面した階段上の建物の6階に出かけた。  今年は文学部創設125年記念ということで、池田弥三郎先生所蔵の原稿・書簡・ 掛け軸の展示会も併せて行われていた。 ただし、この講演会、今回で終了と なるそうだ。

 講演会は、池田弥三郎先生のご長男池田光さんの「銀座育ち」で始まった。 池田光さんは、池田弥三郎著『暮らしの中の日本語』(創拓社)の「あとがきに かえて」に、こう書いたという。 「こうした著作に表われた様々な世界―― 自分の実家のこと、そこで育まれたことばの問題、育った町、出会った人々な ど――を見渡してみると、私には池田弥三郎の生きてきた道そのものが、ひと つの学の体系をなしているような気がしてならないのである。」 「学の体系」 とし、あえて「学問」とはいわなかった、と講演で述べた。 学問を自分に合 わせて行った、「なりゆきまかせ」に、霊魂信仰、ことば(本が十冊ある)、銀 座(『銀座育ち』『銀座十二章』『町ッ子 土地ッ子 銀座ッ子』『わが町 銀座』『日 本橋私記』)、『三田育ち』は慶應義塾民俗誌。

 そして池田家の系図を示し、芸能的な面と、宗教的な面がある家だというこ とを語った(以下、敬称略)。 「天金」初代関口金太郎は、ばくち打ちだった が一念発起、数寄屋橋からサイコロを捨てて天婦羅屋になった(弥三郎が数寄 屋橋から経済原論を捨てて文学部へ進むのに通じる)。 初代には子がなく、養 子にした池田鉸三郎が二代目、鉸三郎と乃婦(のぶ)の子に、金太郎(三代目)・ 銀次郎(大伍・歌舞伎座付作者)・かね(早死)・勢以(せい)。 金太郎と志満 の子に、初子・(女)・太郎(早死)・延太郎(のぶたろう・四代目)・彌三郎(弥 三郎)。

 芸能的な面。 金太郎の一年忌に三十人が三味線を持ってきた。 勢以は三 味線名人。 銀次郎の池田大伍は、歌舞伎座付作者で、近年も『名月八幡祭』 が上演され(平成22年7月新橋演舞場)、訳した『元曲五種』は平凡社東洋文 庫に収録されている。 弥三郎が泰明小学校時代、学校が休みになったので、 歌舞伎を観に行ったら、校長先生を始め先生たちが来ていた。

 宗教的な面。 鉸三郎と乃婦(のぶ)の代は日蓮宗だったのが、金太郎と志 満の代になって、日蓮宗から神道に変わった。 志満は、安西家の娘で、尾張 町小町といわれる美人、宗派神道(神社神道でなく)にのめり込んだ。

 『池田彌三郎著作集第一巻』の対談(相手は西村亨氏)に、こうある。 怨 霊の問題が好きで、それを書けばぼくの私小説ができあがる。 ぼくのうちは 宗教的な気分が濃厚なうちだからね。 叔父の池田大伍なんかだって非常な 信仰家だったし、母親は大変な、巫女みたいなものだし…。 それで、戦前は 安津(あんづ)素彦さんのお父さんのところについて、天神教会という神道だ けれど、毎日のように通った。 何年ぐらい行ったんだろう。 それは池田の 家の怨念を払わなければいかんということなんだよ。 大学の予科の時分には、 一か月、寒行に行った。 親父だって、野洲の古峰神社に二十何年通ったよ、 お籠りにね。 怨霊の問題というのは、ぼくの血肉の問題なんだよ。

 池田彌三郎作の戯曲『漂へる時』(八部作・未発表)には、池田家の宗教的な 面が描かれている。 茂(弥三郎)と従姉妹ちよ(岡部志希子(しげこ)=初 子の娘)との会話。 秋山(池田)のうちは、代々、夫婦がどっちか缺けるん だ。 夫婦そろって長生きの出来ない家すじなんだ。 養子に来たおじいさん (鉸三郎)は四十二で亡って、おばあさん(乃婦)は三十六で後家になった。  叔父さんも結婚して、十年目に、叔母さんと死別した。 おやぢの妹の、入舟 町の叔母さん(勢以)が、三年目に不縁になった。

 「お前(ちよ)は、もうそろそろ結婚するんだろうが、相手には、健全な健 康な人を選んで、お前のお母さんに伝わってゐる、ごうすと(ゴースト)と縁 を切るんだよ。 さう言ふいゝ人を選び出せる様に、僕はお前に、學問しろと 言ってゐるんだよ。」

岡野弘彦さんの「折口信夫・池田弥三郎」思い出話2015/11/09 06:30

折口信夫・池田弥三郎先生記念講演会、岡野弘彦さんがいらしていて、池田 光さんの話を聞いた感想を述べた。 岡野弘彦さんは1924(大正13)年のお 生まれだから、91歳になられる、歌人、日本芸術院会員、文化功労者、國學院 大學名誉教授。 和歌の進講指南役として、宮中と関りが深い。

話はたいへんに長くなったが、折口信夫の家に同居したこと、折口信夫と國 學院・慶應義塾の関係、池田弥三郎・加藤守男・戸板康二など慶應の人々との 交友など、興味深い内容であった。

折口信夫の講義は、ノートなどなく、七つか八つの項目を手帳に書いてある だけで、話してゆく。 慶應の人たちによって、そのノートが残った(講演会 は、そのあと、『池田彌三郎ノート 折口信夫芸能史講義 戦後篇』(上)の紹介、 スライドショーが予定されていた)。 池田弥三郎さんと加藤守男さんの友情は、 濃やかで素晴らしいものだった。

戦争から帰って、学部の2年で、折口先生と、学問と生活を体験できるなら と、先生の所に行った。 祖父と孫のようなもので、先生も身体の衰えがあり、 先輩方のような特異な子弟関係は、私には及んでこなかった。 先生は不器用 なので、風呂で髭を抜いてあげることはあった。

叱られたのは、一度。 喜びの感情を表わすことについてだった。 私は伊 勢の田舎の神主の家系で、しかつめらしい教育を受けて育ち、神宮皇學館中学 から國學院に進んだ。 お礼を言うような時には、きちんと手をついて言うよ うに父に躾けられていた。 先生の配慮で、講師にしてもらうことになり、先 生がそのことを他の方に話しているのを聞いた。 一緒に國學院を出、恵比寿 から大森へ帰るのだが、先生の機嫌がだんだん悪くなった。 家に帰ると、先 生が憤然として叱る。 君は感動がない、話を聞いていれば、わかったはずだ。  それなのに…、ここまでに、喜びの声を聞き、喜びの表情を見たかった。 そ んなことで、何の文学がわかるものか、と。

折口先生主宰の短歌結社「鳥船(とりふね)社」で、半月に一回、慶應義塾 の人達(池田弥三郎・加藤守男・戸板康二など)と一緒になった。 伊馬春部 さんが司会をして、先生の批評は厳しいけれど、心のこもったものだった。 國 學院と慶應の両方で、贅沢な時間を過ごした。 私は池田弥三郎さんの十年下、 西村亨、清崎敏郎は同じ学年になる。 河童祭や、戯曲を先生の前で披露する 「例の会」というのもあった。 私は酒を飲めないが、先生はビールやジンを 生のまま、池田さん伊馬さんはお酒が好きだった。 同門の兄という感じで、 慶應の先輩たちは気安く、付き合えるのだった。 のびのびと育っていて、世 間のことを考える時、一番親しい相談をかけることが出来た。 自分の人間形 成に、有難いものを頂いたというのが、三田の山への思いである。

池田家が神社神道でなく、安津素彦の宗派神道だという池田光さんの話を聞 いて、池田弥三郎さんがそのことに縛られるのではないかと折口先生が心配し ていたこと、そうした配慮を思い出した。

『折口信夫芸能史講義 戦後篇』(上)2015/11/10 06:22

 岡野弘彦さんの話が長くなって、『池田彌三郎ノート 折口信夫芸能史講義 戦 後篇』(上)(慶應義塾大学出版会)の紹介をした伊藤好英さん(元慶應義塾高 校教諭)の時間が少なくなったのは気の毒だった。 伊藤さんはこの本を、講 演会を主催している藤原茂樹さんと、池田光さんの三人で編集・解題した。

 伊藤さんは折口信夫について、岡野弘彦さんの話から特に二つのことを挙げ た。 折口信夫の学問の本質は、感激にあり、何かに触れた時に、自分の中で 感じたことを一番の基盤にして、語っていた。 もう一つは、イマジネーショ ンが根底になっていること。 目の前の学生や同僚と対する中で、どんどん練 って行って、つくった学問だということ。 授業の中で、興に乗って、ふくら み、広がり、深まる。

 『池田彌三郎ノート 折口信夫芸能史講義 戦後篇』(上)の目次だけ書いてお く。 昭和20年度、22年度、23年度の「芸能史」、23年度「都民講座」。 昭 和20年度は、かづらもの、日本芸能における男芸女芸の研究、神がかりの動 作以外のもの・定家・通小町・墨染桜・雪、乙女の舞。 22年度は、芸能史を 芸能自身から釈いてゆく行き方、翁・松、鏡板の松、傘、道中芸、能役者・祝 福芸、祝言職、旅行、くぐつ・ほかひ、芸能団の遊行、放浪、旅行の文学、漂 泊者の芸能、歌舞伎芝居の一考察、かぶきの草子、歌舞伎の話の結論。 23年 度は、語義、鎮魂法、鎮魂儀礼・あそび、神あそび・狂乱、宮廷の神楽・はい りこんだもの、ものぐるい、つきもの、狂女・百万 山姥・かつらおび、芸能と 宗教の関係・修羅物、舞踊、舞・神迎え、女舞、東遊び、東の歌、武官 ものの ふ・相撲の話、相撲(一)(二)(三)。

つづいて、写真家・民俗研究家、芳賀日出男さんのスライドショーがあった。  慶應義塾大学文学部卒業。 94歳、車椅子で登場されたが、お元気で明瞭な説 明をなさった。 撮りためた日本の祭や民俗芸能の写真が、『折口信夫芸能史講 義』によく対応している例を、沢山挙げた。 折口信夫は、芸能で大切なこと として「中門口(ちゅうもんぐち)の芸能」ということを言った。 平安時代 の寝殿造で、東西の対屋(たいのや)から釣殿に通ずる廊の中ほどにある門、 そこへ民俗芸能団がやってきて、田楽などの芸能が披露された。 春日若宮御 祭礼図では、宮の入口で芸能が行われた。 千秋(せんじゅ)万歳、三河万歳 が、家の入口に来る。 平安時代から、徳川時代、そして現在に至っても、い ろいろな祭や踊り、芸能が日本各地で行われている。 芳賀日出男さんの写真と文で、『折口信夫と古代を旅ゆく』が2009年に慶應 義塾大学出版会から刊行されている。