勇気を出す練習2015/12/14 06:30

 福澤諭吉協会の土曜セミナーで聴いた神吉創二さんの「小泉信三という人― 『伝記小泉信三』を上梓して―」について、4日間書いてきた。 『伝記小泉 信三』(慶應義塾大学出版会)がたくさんの人に読まれて、小泉信三さんのこと が若い人たちにも知られることを期待したい。

 私は、小泉信三さんに大きな影響を受けた。 戦後のご活躍の時期が、私の 高校大学・社会に出た時代と重なっているからだ。 昭和32(1957)年に慶 應義塾志木高校に入ったが、翌昭和33(1958)年が慶應義塾創立百年の年で、 いろいろな行事に参加して、小泉信三さんの見事な式辞やスピーチを聞く機会 があった。 大学生の兄に連れられて、銀座のヤマハホールで福沢先生につい ての講演を聴いたこともある(もう一人の講師は徳川夢声だった)。 その年は、 皇太子殿下と正田美智子さんのご婚約が発表され、そのかげでの小泉さんの存 在と努力は非常なものであった。 昭和35(1960)年1月10日は、福沢先生 生誕125年記念式典が大阪堂島の生誕地であって、志木高から派遣してもらっ た私は(繰り返し書いてきた人生唯一の自慢話)、高麗橋三越での記念祝賀会で 小泉さんのスピーチを聴いた。 ここには(その前「先覚者としての福沢先生」 という記念講演をした)京大の滝川幸辰(ゆきとき)さんもおられるが、私学、 特に慶應義塾の卒業生が社中を大切にして一致協力することは、官学にはない ことで、誇りにできる、と。 大阪商工会議所会頭の杉道助さん(吉田松陰の 杉家八代目)の祝辞・挨拶も両方で聞いた。 杉道助さんは、祝賀パーティを 主催した京阪神連合三田会の代表でもあった。

 その頃から昭和41(1966)年5月11日の突然のご逝去の前後の時代は、ち ょうど小泉信三さんの本がいろいろ出版された時期でもあった。 『秩序ある 進歩』(1961年・ダイヤモンド社)、『わが日常』(1963年・新潮社)、『読書論』 (1950年初版1964年20刷改版・岩波新書)、『福沢諭吉』(1966年・岩波新 書)、『海軍主計大尉小泉信吉』(1966年・文藝春秋)、『座談おぼえ書き』(1966 年・文藝春秋)、『わが文芸談』(1966年・新潮社)などをむさぼるように読ん だ。 『三田評論』「追悼・小泉信三」1966年8・9月号、『小泉先生追悼録』 (『新文明』1966年9月臨時増刊・新文明社)、今村武雄著『小泉信三伝』(小 泉信三先生伝記編纂会・1983年)も、書棚にある。 当時、森鴎外や夏目漱石 を読んだのは、『わが文芸談』の影響である。 福沢や漱石の手紙の面白さも、 小泉さんに教わった。

 神吉創二さんの講演にあった「練習は不可能を可能にす」だが、『わが日常』 に「練習」「練習(続き)」があった。 「習の字は、鳥が羽ばたいて飛翔を練 習する形を現したものであるということである。」で始まる「練習」は、主に練 習による肉体的能力の増進について述べているが、「練習(続き)」では、一歩 進めて、精神的能力の向上についても、随分同じことが言えるのではないか、 と例を挙げる。 かつて日本海軍は「定刻前五分」ということを喧しく教えた。  それは海軍軍人通有の長所となったが、それは疑いもなく訓練で養われた。 そ れは約束の厳守一般についてもいえるだろう。 「義ヲ見テセザルハ勇ナキナ リ」という、尻込みする自分を叱咤して、それを敢えてした経験も、多くの人 にあるであろう。 経験を重ね、自ら励ますことによって、怯者も勇者となり 得る。 事ある毎に、「汝、人にせられんと欲する如くその如く人にもせよ」と の訓えを憶い起こすことは、たしかに練習によってできる。 これを憶い出す 毎にこの訓えを守る努力をすることも、またできなければならない筈である、 と。

 『小泉先生追悼録』大多和顕さんの「小泉先生と東京女学館」に、昭和30 年11月10日の同校創立記念日の記念講演を、慶應以外そうした講演は断わっ ていた小泉先生が、生徒の講演者希望第一位と聞いて引き受けられた話がある。  たまたま明治21(1888)年の創立は、小泉先生と同い年だった。 講演内容 を大多和さんが書いているが、上の「練習」の内容を、女学生向けにかみくだ いたものだった。