新井領一郎と、その家族のこと2015/12/25 07:16

 新井領一郎は、安政2年7月19日(1855年8月31日)上野国勢多郡水沼 村(後の黒保根村・現群馬県桐生市黒保根町)に、星野彌平の6男(幼名は良 助)として生れ、12歳で桐生の生糸問屋新井系作の養子となる。 明治7(1874) 年開成学校入学、明治8(1875)年東京商法講習所(現一橋大学)入学。 昭 和14(1939)年4月10日に、83歳で亡くなっている。

 『花燃ゆ』では、生糸の販路を開拓し、直輸出するために、明治9(1876) 年3月10日渡米する際、松陰の脇差を託される演出になっていた。 ニュー ヨークで顧客獲得に取り組み、日本初の生糸直輸出を実現したが、それは同時 に、従来外国人居留地外商がやっていたインド洋・欧州(ロンドン)経由では なく、太平洋航路と大陸横断鉄道の利用による日本初のアメリカへの生糸輸出 であった。 そして長い間、アメリカの生糸市場の開拓・拡大に携わり、絶え ず高い品質の維持向上に努め、市場から高い評価と信頼を勝ち得て、日米貿易 の先駆者の一人となった。 明治39(1906)年には、アメリカの日本からの 生糸総輸入量の36%を取り扱い、他国から輸入分を加えると、取扱高は実に5 割前後に及び、アメリカ最大の生糸輸入者となった。 ニューヨーク・タイム ズ紙は「日米生糸貿易の創始者」と評し、生前は「生きたる生糸貿易の歴史」 と言われた。 明治期の日本にとって、生糸輸出は最大の外貨獲得手段であっ たから、大きな貢献を果たしたことになる。

 民間人として初めて日米間の相互理解や信頼向上、交流促進に取り組み、明 治期に日米友好関係の構築に尽力した。 在米日本人とアメリカ人との交流を 図った日本クラブ、日本文化の発信拠点となったジャパン・ソサエティの創設 者の一人である。 アメリカにおける初期在住日本人の社会的地位向上にも努 めた。

 新井領一郎の妻田鶴は、昨日書いたように牛場卓蔵の娘。 息子の新井米男 はハーバード大を出て東京海上火災保険会社アメリカ支社総支配人(その妻盈 (みつ)の父は岡部長職(旧岸和田藩主)・8月28日の当日記「岡部長景元文 相の「巣鴨日記」」参照)、娘の美代は松方正義の息子の松方正熊に嫁いだ。 美 代はアメリカ東海岸で生まれた帰国子女第1号といわれている。 孫の松方春 子はエドウィン・O・ライシャワーの妻ハル・松方・ライシャワー(ハルには 著書『絹と武士』がある)。 同じく孫の松方種子は、西町インターナショナル スクールの創設者。

人間を笑うが如し年の暮<等々力短信 第1078号 2015.12.25.>2015/12/25 07:18

 年の暮に、ほんわかと、ゆったりした気分になる文庫本に出合った。 東急 Bunkamuraザ・ミュージアム前のナディッフ・モダンという本屋を覗いた。  ここは、美術書はもちろんだが、文芸関係などでも、本の選択が独特で、面白 い本が見つかる。 ちくま文庫の『笑う子規』、正岡子規・著、天野祐吉・編、 南伸坊・絵である。

 まず、南伸坊さんの挿絵が楽しい。 昔、文化人切手というのがあって、8 円の正岡子規は、坊主頭の横顔だった。 お爺さんだと思っていたら、34歳で 死んだという。 伸坊さんも<行水や美人住みける裏長屋>で、浴衣姿の横顔 の子規を描き、隣の頁を覗いている。 そこには<夕顔に女湯あみすあからさ ま>。 <枝豆ヤ三寸飛ンデ口ニ入ル>では、さやから押し出された豆が空中 を飛び、今まさに横顔の子規の口に入らんとしている。 <人間を笑うが如し 年の暮>の子規は、横を向いて、大笑いだ。

 天野祐吉さんは東京生れだが、戦争末期に松山に疎開し、そのまま中学・高 校時代を過ごした縁で、70歳になる少し前の2002年から4年半、松山市立子 規記念博物館長を務めた。 まず考えたのは、厳粛な顔をしている「子規博」 の顔を、愛敬のある笑顔に変えたいということだった。 手始めに毎月、建物 の前に子規俳句を手書きの大きな垂れ幕にして下げた。 書家に頼む予算がな く、恥をしのんで自分で書いた。 <めでたさも一茶位や雑煮餅>が第一号で、 市民からは「毎月楽しみにしている」「今月の句はつまらん」「字が下手だ」と かいろいろな声が寄せられ、館長が代わった後も続いている。 『笑う子規』 で、天野さんがその句につけた文は、「一茶はうまいね。「めでたさも中くらい なりおらが春」なんて。ことしの正月は、そのもじりでお茶を濁すか。」

 単行本は2011年夏、子規の百十回忌に刊行されたが、天野さんは「これは かなり「よもだ」(いいかげん・松山弁)な本です。」場違いな本かもしれない、 「でも、子規さんもかなりよもだな面を持った人だったし、それにぼくの育っ た家の「ご近所さん」でもあるので、「ようやらい」と笑って許してくれるんじ ゃないかと思っています」と。

 こんな句もある。 <盗人の暦見て出る恵方かな><女生徒の手を繋ぎ行く 花見哉><蝶飛ブヤアダムモイヴモ裸也><五女ありて後の男や初幟>(隣家 の陸羯南・新聞『日本』社長宅)<涼しさや人さまざまの不恰好><愛憎は蠅 打つて蟻に与えけり><極楽は赤い蓮(はちす)に女かな><銭湯で下駄換え らるる夜寒かな><桃太郎は桃金太郎は何からぞ><取りに来る鐘つき料や暮 の秋>。 森まゆみさんが『波』に連載している「子規の音」の第20回(9月 号)では、<行く秋の鐘つき料を取りに来る>となっていて、庶民は上野の時 の鐘の聞き料を、毎月一厘払っていたとあった。