森村ブラザーズ、森村市太郎と豊2015/12/26 06:23

 福沢一太郎、捨次郎がアメリカ留学でお世話になった森村ブラザーズについ ても、『福澤諭吉事典』の小室正紀さんの記述をそっくり引いて、紹介しておく。

 森村市太郎(市左衛門)(天保10(1839)年~大正8(1919)年)は、森村 組の創設者。 江戸京橋の袋物商の長男として生れたが、生家は安政の地震大 火で破産し、土方や露天商をしながら家業を再建した。 その後、馬具、袋物 などを商い、その関係で中津藩江戸屋敷に出入りし、福沢諭吉と懇意になり、 福沢思想への共鳴者となる。 当時、福沢から、国の独立のためには商人が国 の中心になり、貿易を盛んにし、国を富まさなければならないことを学んだと いう。

 維新期には洋式馬具の製造納入で新政府の御用商人として成功したが、福沢 の影響もあり官需に頼らない「独立自尊」の経営に転換し、明治9(1876)年、 異母弟森村豊(とよ・嘉永7(1854)年~明治32(1899)年)や義弟大倉孫 兵衛(天保14(1843)年~大正10(1921)年)らと森村組を組織し、陶器な どの日本製雑貨の直輸出業に乗り出した。

 弟の森村豊は、貿易を担える人材を求めていた兄市太郎の勧めで、明治4年 に慶應義塾に入り7年に卒業。 義塾教員を経て、9年の森村組設立に際して ニューヨークに渡り、イーストマン・ビジネス・カレッジを半年ほどで卒業、 同志と共同でニューヨークに日之出商会を設立し、森村組と連携し日本産雑貨 の販売を経験した。 11年には、日本で指揮する市太郎と協力して、森村組の ニューヨーク支店として森村ブラザーズを設立。 日本雑貨の小売業から始め、 日本政府からの補助金を受けた半官企業との競争など、多くの苦境を克服し、 18年には事業を軌道に乗せた。 32年7月30日、商用で帰国中に急逝。 福 沢は豊のことを、文明の教養を備えた経営者と評価していた。

 一方、市太郎は27年に6代目市左衛門を襲名。 事業を製造業にも展開し、 37年には日本陶器(のちのノリタケ)、大正5(1916)年には東洋陶器(のち のTOTO)を創設。 商業教育や女子教育・女性の独立への支援にも関心が高 く、日本女子大学、三輪田学園、高千穂学園を援助し、また明治43年に森村 学園の前身となる幼稚園・小学校を設立した。

 福沢の多くの事業にも支援を惜しまず、交詢社の発足時社員であり、丸善や 貿易商会の設立や丸家銀行の破綻整理の際にも協力、また、福沢と共に私財を 投じ北里柴三郎の伝染病研究所や土筆ヶ丘(つくしがおか)養生園の設立を可 能にした。 福沢没後にも慶應義塾大講堂の建設費7万円のうち5万円を寄附 している。 晩年はキリスト教に改宗、大正8年9月11日に没した。

 著書に、『積富の実験』(大学館・1911年)、『独立自営』(実業之日本社・1912 年)、『儲けんと思わば天に貸せ』(社会思想社・1999年)。 参考文献に、若宮 卯之助『森村翁言行録』(大倉書店・1929年)、小室正紀「書簡に見る福沢人物 誌9 森村市太郎・森村豊・村井保固」『三田評論』1075号(2005年)、大森 一宏『評伝・日本の経済思想 森村市左衛門』(日本経済評論社・2008年)。