五代友厚がきっかけ、「明治14年の政変」2015/12/28 06:32

 『福澤諭吉書簡集』鎌田栄吉・市来七之助・藤野近昌宛・明治14年9月19 日付(No.605)は、鹿児島英学校に赴任する3名に近況を伝えるものだが、北 海道開拓使官有物払下問題についての感想を述べている。 東京は、開拓使払 下問題で「物論之喧しき事なり。其事柄ハあまり正しき仕方ニも有之間布(こ れあるまじく)候得共、今之政府之仕組なれハ(ば)、何も珍らしからぬ挙動な らん。必ス(ず)しも黒田ト五代を、此度ニ限り咎(とがめ)るニも及はさる 事なり。之を咎れハ(ば)、十三年間政府之全体を咎て可なり。」

 大隈重信宛・明治14年10月1日付(No.610)では、同様に「今回之一条、 不正ト申せハ不正ならんなれ共、明治政府ニは十四年間この類之事不珍(めず らしからず)。」「然るニ斯クも喧しきハ、畢竟三菱ト五代ト利を争ひ、大隈ト黒 田ト権を争ふより生したる者ニして」云々の作説が「随分官海ニ流行して」い る、とのん気なことを書いている。 福沢も、まさか11日後に、この問題を きっかけにして、自身の運命を大きく変える明治14年の政変が起こるなどと は、まったく考えてもいなかったのだ。

 この明治14年、北海道開拓使の官有物を五代の関西貿易商会に非常な廉価 で払い下げる計画が発覚、五代と開拓使長官の黒田清隆が共に薩摩出身であっ たため問題化し、憲法制定と国会開設に関する路線選択と主導権をめぐる明治 政府内部の対立[イギリス流の議院内閣制による国会を早期に開設すべしとす る参議大隈重信と、プロイセン流の帝王大権優位の国会を漸進的に開設すべし とする伊藤博文らとの対立]とも結びついて、大隈重信や民間の諸新聞、民権 派運動家らによる薩長藩閥政府批判、国会開設請願運動が沸き起こった。 追 い詰められた政府の危機的状況の下で、伊藤博文・井上馨・岩倉具視・井上毅・ 黒田清隆ら薩長藩閥を中心とした勢力は、一種のクーデターを起こす。 明治 14年10月12日、明治天皇の東北・北海道巡幸から帰還の日に、プロイセン 流の欽定憲法路線の選択を意味する明治23年国会開設の勅諭の発布、ならび に筆頭参議大隈重信の罷免と官有物払い下げを中止の発表をするのだ。 これ が「明治14年の政変」である。 同時に、大隈の与党と目された河野敏鎌・ 前島密・小野梓らに加え、福沢諭吉の慶應義塾系の少壮官僚、矢野文雄・中上 川彦次郎・犬養毅・尾崎行雄・牛場卓蔵・森下岩楠らも、官界から追放された。  一方、五代もこの事件で「政商」として世論の非難を浴びた。