藻谷浩介さんの「事実直視」数字クイズ2016/02/01 06:20

 前から、書きたいと思っていて、なかなか書けなかった。 『里山資本主義』 ヒゲヅラの藻谷浩介さん(日本総研主席研究員)が、12月3日の朝日新聞朝刊 「メディアのこれから」で述べた「日本社会に必要なのは客観的な事実認識の 共有化であり、それを実現できるのは事実を調べ記述する社内規範を確立した 一部の新聞メディアしかない」、「新聞は、客観的な記事と、主観を述べる署 名記事をはっきりと峻別することで、主客混同の風潮に抗して欲しい」という 意見だ。

 読んで衝撃を受け、なるほどと思ったのは、それを説明した部分だ。 日本 社会の上から下まで、ごく基本的な事実の誤認が蔓延しているとして、「事実 を直視する」基本的な数字をクイズで出題している。

(1)日本国内の殺人事件件数はバブル崩壊以降増えているか減っているか?  (2)空き家の多い都道府県はどこか? (3)バブル期の1990年(1ドル= 145円)から、震災があった2011年(1ドル=80円)の間に、日本の輸出額 はどうなったか? (4)2014年に日本が最も多く貿易赤字を計上した相手地 域は中国か、米国か、それ以外か? (5)野田内閣の2012年とアベノミクス の2014年を比較して、東証1部+2部の株式時価総額は200兆円も増えたが、 個人消費(家計最終消費支出)はどうなったか? (6)日経平均株価がピー クだった1989年の名目国内総生産(GDP)は、現在とくらべてどうだったか?  (7)日本の生産年齢人口(15~64歳人口)は1995年から2015年の20年間 にどのくらい減ったか?

正解は(1)4分の3に減少。(2)東京都で、国内の空き家の10軒に1軒 が集中。 (3)41兆円から66兆円へと6割増。 (4)中東。 (5)7兆円 の微増で、物価上昇を考えればほぼ横ばい。 (6)415兆円と現在(2014年 487兆円、2015年約500兆円)よりずっと低かった。 (7)1千万人、12% も減っており、約200万人の在日外国人を増やして埋め合わせることは不可能。

藻谷さんは、こうした基本的な経済指標を幾つか踏まえてさえいれば、金融 緩和が円安と株価上昇はもたらすものの、経済成長につながらないことは、簡 単に予測できた、とするのだ。

福岡伸一さんのコラム「動的平衡」2016/02/02 06:25

 『動的平衡』『生物と無生物のあいだ』の生物学者・福岡伸一さんが、毎週 木曜日の朝日新聞朝刊に連載しているコラム「福岡伸一の動的平衡」がとても 面白い。 沢木耕太郎さんの連載小説『春に散る』の真上にあるから、忘れず に読む。 三回目からは、番号と日付が入るようになって、1月28日で第9 回になった。 その第9回は「哀れ 男という「現象」」で、生命の基本形は 女性なのだという。 「そもそも38億年にわたる生命進化のうち、最初の30 億年は女だけでこと足りた。男は必要なかった。誰の手も借りず女は女を産め た。その縦糸だけで生命は立派に紡がれていた。」 その後「遺伝子の運び屋 としての“男”」が生み出された、「単なる使いっ走りでよいので、女をつく りかえて男にした。要らないものを取り、ちょいちょいと手を加えた急造品。 たとえば男性の機微な場所にある筋(すじ・俗に蟻の門(と)渡りなどと呼ば れる)は、その時の縫い跡である。」 男は脆(もろ)く、病気になりやすい し、ストレスにも弱い。 寿命も短い。 「哀れなり。敬愛する多田富雄はこ う言っていた。女は存在、男は現象。」

 「失って、初めて気付くことがある」というのは、石橋冠監督の映画『人生 の約束』の一つのメッセージだったが…、12月17日の第3回は「失ってこそ 得られるもの」だった。 「ヒトよりもずっと昔から地球上に存在する微生物 あるいは植物はどんなアミノ酸でもほぼ自前で合成できる。」「なぜ、ヒトを含 む動物は大事なアミノ酸の合成能力を失ってしまったのか。」 学生時代の教師 は「豊富な食物から取れるようになったからだよ」と言ったが、納得できなか った福岡さんは、ずっとこの問題を考え続け、あるアイデアを閃かせる。

 「太古の昔、突然変異によってアミノ酸の合成能力を失った微生物あるいは 植物が現れた。」 「致命的である。しかし致命的であるがゆえに、わずかでも 自ら動く能力がことさら選抜された。失うことによって、より大きな力を得た のだ。動くことができれば食物の探索、捕食者からの逃走、新しいニッチの発 見が積極的にできる。「動物」の誕生である。」  (「ニッチ」というのがわから ない。辞典には「最適の地位[場所、仕事]」、事典には「生態的地位(ecological niche)」、C・S・エルトンは、「その動物の生物学的環境における位置、その食 物ならびに敵に対する諸関係」と定義したとある。)

 2001(平成13)年3月に、家業のガラス工場を畳んで、昔からやりたかっ た、福沢さんのいう「読書渡世の一小民」となった。 その年11月25日の「等々 力短信」第909号「小人閑居して」にその事情を書き、28日から<小人閑居日 記>を始めて14年が過ぎた。 「失ってこそ得られるもの」が、価値あるも のになったかどうか。 読者諸兄姉のご感想は、いかがなものだろう。

「不自由さは自由のためにある」2016/02/03 06:31

 福岡伸一さんのコラム「動的平衡」の第5回(12月31日)は、「制限が生 む協調性」だった。 現代ダンスの鬼才、勅使川原三郎さん(私は知らなかっ た)という方が、福岡伸一さんに「どうして手首は360度ぐるりと回すことが できないのだろう」と言ったそうだ。 福岡さんは、書く。 ひじは一定の角 度以上には開かないし、ひざも反対側には曲がらない。 なぜ身体に、いちい ち制限が設けられているのか。 手首がその制限を超えて、より外側に回転を 求めようとすれば、腕は自然にねじれ、肩が開かれ、腰は傾く。 つまり制限 があるゆえに、身体の他の部分の協調的な動きが促される。

 生物学には「相補性」というすてきな言葉がある、と福岡さん。 「互いに 他を補いながら、互いに他を律する。各パーツの制限は、パーツ相互の運動の ためにある。いや、パーツといういい方は間違っている。身体に部分はない。 全体としてひとつのものだ。」「勅使川原三郎の優雅な舞はそのことの最も端 的な謳歌である。不自由さは自由のためにある。」

今日2月3日は、福沢諭吉の命日である。 私は福岡さんの結語を読んで、 福沢がよく揮毫した「自由在不自由中」、「自由は不自由の中に在り」を思い出 した。 『福澤諭吉事典』は解説して、「自由は他人を妨げないという一定の 不自由を当然に内包している。すなわち完全なる自由は、他人の自由を認めな い絶対君主のような者にしかなく、万人の自由は相互の不自由の上にしか成立 しないという市民社会における自由の本質を説いた語。」

『文明論之概略』巻之五の第九章「日本文明の由来」に、「抑(そもそ)も 文明の自由は他の自由を費して買うべきものに非ず。諸(もろもろ)の権義を 許し諸の利益を得せしめ、諸の意見を容れ諸の力を逞うせしめ、彼我平均の間 に存するのみ。或(あるい)は自由は不自由の際に生ずと云うも可なり。」と ある。 伊藤正雄さんの口語訳を紹介する、「大体、文明社会の自由といふも のは、他人の自由を犠牲にして獲得せらるべきものではない。各自の権利を許 し、各自の利益を認め、各自の意見を容れ、各自の力を発揮させ、さうした全 体の対立と調和からもたらせるものが、真の自由に外ならないのだ。そこで言 ひ換へるならば、“自由は不自由との境目に生れる”といってもよかろう。」 (伊藤正雄著『口譯評註 文明論之概略』慶應通信・1972年)

久世光彦さんの『マイ・ラスト・ソング最終章』2016/02/04 06:28

 1月、年賀状のやりとりから、久しく会わなかった従兄弟と会う機会があっ た。 母方の叔父の息子二人で、終戦直後、その叔父が父の会社の経理を担当 していたので、一家は目黒にあった工場の中に住んでいた。 よく遊びに行っ ていて、私より三つ下の長男が、まだ幼いのに「啼くな小鳩よ」という流行歌 を歌っていたのを憶えていた。 工場が乗っ取られる形になってしまい、彼は 苦労したけれど東大を出て、銀行に入り副頭取まで務めて、今は一部上場メー カーの代表取締役、カラオケバーで歌い、レコードまで吹き込んだという。 私 は、彼が頭がよくなったのは、幼時、工場の社宅で若い工員達に囲まれて育っ たことも影響しているのではないか、という推論を話したのだった。

 久世光彦さんの『マイ・ラスト・ソング最終章』(文藝春秋)の冒頭に、戦後 歌謡について書くと、その反響が半端ではないという話が出て来る。 「一つ の歌にまつわる自分史の中のエピソードだったり、身近な死者についてだった り、あの時代の人たちは、歌の一つ一つを死に物狂いで歌っていたような気に なってくる。明るい歌にも飢えの味がしたし、陽気なジャズにだって血の匂い がした。大げさなようだが、こればかりはあの時代を知らない人には、わから ない。」

 久世さんは、自分と同じ昭和10年前後生れが集まって、戯れに戦後歌謡の ベストスリーなどを選ぶと、だいたい次の曲たちがリストアップされると書い ている。 「リンゴの歌」「東京の花売娘」「かえり船」「啼くな小鳩よ」「夢淡 き東京」「星の流れに」「港が見える丘」「君待てども」「憧れのハワイ航路」「湯 の町エレジー」。 昭和16年生れの私などでも、みんな知っている。

 この本に「東京オリンピック前夜」という一文がある。 久世さんは、いろ いろな時代を背景にドラマを撮ったが、関東大震災のころとか、昭和10年代 とかが多い。 そうした時代が好きで、私たちは、あの時代に何か大きな忘れ 物をしてきたのではないか、という。 「特に戦前から昭和20年代にかけて のドラマを撮っていると、そう思う。文化や生活の感触、温度、匂いといった ものが、現代と比べてずいぶん違うのだ。潤いがあった。周囲の人たちや、お なじ世代との間に強くて明るい〈連帯〉があった。何よりも〈国〉というもの があった。私が忘れ物というのは、こうしたことである。」

 2004(平成16)年だと思うが、正月2日放送のドラマ「向田邦子の恋文」 の話になる。 久世さんにしては珍しく、東京オリンピックを目前にひかえた 昭和30年代おわりごろのドラマだった。 「都市部に高速道路ができ、東海 道新幹線が走り、高層ビルが目立つようになって、街の色が白っぽくなった。 東京の匂いも変わった。コンクリートとガラスの乾いた匂いで、息がつまるよ うになった。亡くなった山本夏彦翁は、オリンピックの年を境に、この国の〈戦 後〉は終わったと言ったが、その言葉は裏を返せば、〈文明〉が一足飛びに進ん だ代わりに、〈文化〉が衰えはじめた――という意味だった。この翁の言葉を、 私たちは忘れてはいけない。」

 昭和39年4月、学校を卒業して社会へ出た私は、その空気の中を、銀行の 集金カバンを提げて、銀座の表裏をウロチョロし始めた。 私が4年半ほど勤 めたその銀行は、後に従兄弟の銀行と合併したから、ずっと銀行にいたら、彼 の部下になっていたかも知れないと言って、笑ったのだった。

「侍ニッポン」新納鶴千代にが笑い2016/02/05 07:05

 久世光彦さんは雑誌『諸君!』に、「あなたは、最後に何を聴きたいか」とい うテーマで、「マイ・ラスト・ソング」を百数十回、十年余り書いた。 「侍ニ ッポン」という一文がある。 「人を斬るのが 侍ならば 恋の未練が なぜ 斬れぬ 伸びた月代(さかやき) さびしく撫でて 新納(しんのう)鶴千代  にが笑い」。 昭和6年、西條八十の作、そのころ人気のあった徳山璉(たま き)が歌って、日本中が「侍ニッポン」で沸いたという。 私も、もちろん戦 後のことだが、聞いたことがある。 もともとは群司次郎正の小説『侍ニッポ ン』が原作で、映画化もされたらしい。 久世さんの東大の先輩にチエホフの 演出をやっていた新納さんという人がいて、その読み方は「ニイロ」だった。

 その「侍ニッポン」の回に、多くの人から手紙をもらったという。 『文藝 春秋』編集部の吉地真さんは、古書店で〈春陽文庫〉版の群司次郎正『侍ニッ ポン』を見つけて送ってくれた。 「この吉地さんという人は、まだ若いのに 博学多識の編集者で、海上自衛艦の艦種、台湾高砂族の婚姻風習、わが国の元 号出典の変遷、ポーランドの猥歌の地方性――といった具合に、余計なことば かり知っている面妖な人である。もうずいぶん前のことだが、私は何か解らな いことがあって緊急に知りたいときは、向田邦子さんに電話して訊いたものだ。 向田さんはどんなことでも、五分以内に調べて教えてくれるので重宝した。― ―いまは吉地さんである。」と、久世さんは書いている。

 その吉地さんによると、「侍ニッポン」の〈新納鶴千代〉は、〈ニイロツルチ ヨ〉が正しく、原作にちゃんと読み方が記されているという。 物語が始まっ て数ページ目に、「にいろさま! つるちよさま! 娘はほんのりと抜け出たえ り首をうなだれて、何度も浪人の名を繰り返しているようであった」と、平か なで書いてある。 なぜ、当時の人気歌手徳山璉は、「♪シンノウツルチヨにが 笑い~」と、堂々朗々と歌っているのか? 歌手本人も、レコード会社のスタ ッフも、作詞の西條八十までも、原作の小説をちゃんと読んでいなかったとい うのである。 群司次郎正は出来上がったレコードを聴いて仰天した。 早速 レコード会社に訂正を申し入れたが、いまと違って録音し直すには莫大な費用 がかかるので、そのままになってしまった。 そして〈シンノウツルチヨ〉の この歌は、全国津々浦々にまで広まった。 新納鶴千代は、にが笑いしている だろう。

 私が、興味を持ったのは、「何か解らないことがあって緊急に知りたいとき」 に訊く人の存在である。 久世光彦さんの場合、向田邦子さんであり、吉地真 さんだった。 私の場合、先日「等々力短信」に「索引の有難さ」を書いたが、 手元の本の索引であり、最近は、パソコンで自分が書いたものを検索すること、 そして何よりインターネットを検索することだ。