久世光彦さんの『マイ・ラスト・ソング最終章』2016/02/04 06:28

 1月、年賀状のやりとりから、久しく会わなかった従兄弟と会う機会があっ た。 母方の叔父の息子二人で、終戦直後、その叔父が父の会社の経理を担当 していたので、一家は目黒にあった工場の中に住んでいた。 よく遊びに行っ ていて、私より三つ下の長男が、まだ幼いのに「啼くな小鳩よ」という流行歌 を歌っていたのを憶えていた。 工場が乗っ取られる形になってしまい、彼は 苦労したけれど東大を出て、銀行に入り副頭取まで務めて、今は一部上場メー カーの代表取締役、カラオケバーで歌い、レコードまで吹き込んだという。 私 は、彼が頭がよくなったのは、幼時、工場の社宅で若い工員達に囲まれて育っ たことも影響しているのではないか、という推論を話したのだった。

 久世光彦さんの『マイ・ラスト・ソング最終章』(文藝春秋)の冒頭に、戦後 歌謡について書くと、その反響が半端ではないという話が出て来る。 「一つ の歌にまつわる自分史の中のエピソードだったり、身近な死者についてだった り、あの時代の人たちは、歌の一つ一つを死に物狂いで歌っていたような気に なってくる。明るい歌にも飢えの味がしたし、陽気なジャズにだって血の匂い がした。大げさなようだが、こればかりはあの時代を知らない人には、わから ない。」

 久世さんは、自分と同じ昭和10年前後生れが集まって、戯れに戦後歌謡の ベストスリーなどを選ぶと、だいたい次の曲たちがリストアップされると書い ている。 「リンゴの歌」「東京の花売娘」「かえり船」「啼くな小鳩よ」「夢淡 き東京」「星の流れに」「港が見える丘」「君待てども」「憧れのハワイ航路」「湯 の町エレジー」。 昭和16年生れの私などでも、みんな知っている。

 この本に「東京オリンピック前夜」という一文がある。 久世さんは、いろ いろな時代を背景にドラマを撮ったが、関東大震災のころとか、昭和10年代 とかが多い。 そうした時代が好きで、私たちは、あの時代に何か大きな忘れ 物をしてきたのではないか、という。 「特に戦前から昭和20年代にかけて のドラマを撮っていると、そう思う。文化や生活の感触、温度、匂いといった ものが、現代と比べてずいぶん違うのだ。潤いがあった。周囲の人たちや、お なじ世代との間に強くて明るい〈連帯〉があった。何よりも〈国〉というもの があった。私が忘れ物というのは、こうしたことである。」

 2004(平成16)年だと思うが、正月2日放送のドラマ「向田邦子の恋文」 の話になる。 久世さんにしては珍しく、東京オリンピックを目前にひかえた 昭和30年代おわりごろのドラマだった。 「都市部に高速道路ができ、東海 道新幹線が走り、高層ビルが目立つようになって、街の色が白っぽくなった。 東京の匂いも変わった。コンクリートとガラスの乾いた匂いで、息がつまるよ うになった。亡くなった山本夏彦翁は、オリンピックの年を境に、この国の〈戦 後〉は終わったと言ったが、その言葉は裏を返せば、〈文明〉が一足飛びに進ん だ代わりに、〈文化〉が衰えはじめた――という意味だった。この翁の言葉を、 私たちは忘れてはいけない。」

 昭和39年4月、学校を卒業して社会へ出た私は、その空気の中を、銀行の 集金カバンを提げて、銀座の表裏をウロチョロし始めた。 私が4年半ほど勤 めたその銀行は、後に従兄弟の銀行と合併したから、ずっと銀行にいたら、彼 の部下になっていたかも知れないと言って、笑ったのだった。