『つまをめとらば』、青山文平さんと江戸の中後期2016/02/11 06:35

67歳で直木賞を受賞した青山文平さんの『つまをめとらば』(文藝春秋)を 読んだ。 新聞の紹介やご本人の寄稿を読み、これは面白そうだと直感して手 に入れたのだが、予想通りの結果となった。 40代前半で、純文学作品で作家 デビューし、新人賞を受け、創作に専念するため経済系出版社を退社したもの の、心身を削る創作活動に、10年で行き詰まったという。 こうした経歴が、 小説の登場人物たちに色濃く反映しているように思える。 還暦を過ぎて「年 金だけでは暮らせないから」と、再び筆を取り、時代小説に転向して5年だそ うだ。 時代小説の花形である幕末や戦国時代でなく、江戸の中後期、18世紀 後半から19世紀前半を小説の舞台にする。

その理由を、青山文平さんは、こう説明する。 太平の世で、「城下町」は衰 えていき、代わって村が成長発展して町になった「在町(ざいまち)」が元気を 見せつけるようになる。 武家と武家にサービスを提供するための商工業者の 町である「城下町」の元気を、農村を核とする農民経済、「在町」の元気が上回 るのだ。 それは、中央集権化を進める過程で、武家が富の源泉である村から 引き離され、「城下町」への集住を余儀なくされたことによって、すべての財の 生産基盤である村の生産力向上の分配にあずかれなかったためである。 どん なに生産現場で技術革新が進み、飛躍的に生産力が上がっても、そこにいない 武家は、非武家の成長とその帰結である文化の成熟を、外側から見ているしか ない。 幕藩体制の基本構造そのものが、武家の窮乏を促している。 この本 質的な矛盾が顕著に現れるようになったのが中後期であり、その激震を一身に 受けた身分が武家だった。 幕藩体制の組織は戦時体制が基本で、その経済の 前提は自給自足であり、つまりは商業の否定だ。 自分たちの存在理由を貫く ためには、商工業の発展を拒否しなければならないのに、現実には、生産力向 上のシェアを目指さざるをえない。 自己矛盾に引き裂かれながら、武家は答 えの出ようがない問いに挑み続け、もがき続けることになる。 その姿が、進 むべき道の手がかりを失った今という時代と格闘する、私たちと重なるところ に、青山文平さんが江戸の中後期の武家を描く理由があるというのである。

『つまをめとらば』には、六編の短編小説が収められている。 「ひともう らやむ」「つゆかせぎ」「乳付」「ひと夏」「逢対」、そして「つまをめとらば」。  年号などが書いてあるものが、いくつかある。 「乳付」には、将軍家十代徳 川家治に初御目見したとある。 家治の治世は宝暦十(1760)年から天明六 (1786)年、田沼意次の時代である。 「ひと夏」には、この「寛政の世」と もなれば、村でも子供に手習いをさせるとある。 寛政は1789年から1801年、 松平定信は寛政の改革で、それに先立つ宝暦から天明の田沼時代に深まった幕 藩体制の危機を乗り切ろうとした。 「つゆかせぎ」には文化九(1812)年、 小林一茶が信濃国柏原の故郷に還ったと夫婦で話したのを、翌年妻に死なれた 夫が思い出す。 「つまをめとらば」には文化十一(1814)年、上野の御山の 名桜である犬桜がめっきり老いて三月も末にならないと花弁を見せない、それ を見に行って幼馴染みの二人がばったり出逢う。

 『つまをめとらば』の時代背景は、宝暦の頃から寛政を経て、文化・文政と いう町人芸術が爛熟し、小説や戯作、狂歌、俳諧、戯曲、浮世絵、文人画など に、すぐれた作家が輩出した時代である。 そこで小説の主人公たちは、釣り、 俳諧、戯作、漢詩、算学、古書店などに関わるのだ。