佐藤賢一さんの小説『遺訓』と鶴岡2016/02/23 06:24

 新潮社の『波』で1月号から、佐藤賢一さんの小説『遺訓』の連載が「一、 鶴岡」で始まった。 佐藤賢一さんは山形県鶴岡の出身で、たしか鶴岡在住だ。  ヨーロッパの歴史小説が多かったが、最近は日本のものも書いているらしい。  私にとって、鶴岡は父のルーツの地で、懐かしい感じがする。 「遺訓」とい えば、『南洲翁遺訓』のことだろう。 庄内藩は戊辰戦争で、奥羽越列藩同盟に 参加して戦ったが敗れ、降伏した。 厳しい処分が予想されたが、案外に寛大 な処置に終り、それが西郷隆盛の指示によるものだと伝わった。 西郷は庄内 の恩人とされ、明治になって旧庄内藩士と西郷の間に交流が生まれた。 西郷 の死後、旧庄内藩士が西郷から聞いた話をまとめたのが『南洲翁遺訓』である。  そんな話は聞いて、知っていた。

 そこで小説『遺訓』だが、書き出しは「沖田芳次郎は新徴組の隊士である。」  新徴組は幕末、文久3年に清河八郎が率いた浪士組の、新選組に次ぐ分れで、 佐幕の雄藩だった庄内藩の預かりとして、江戸の市中取締を担った。 戊辰の 役で朝敵とされ、庄内藩と一緒に江戸を払い、最後は官軍に下った。 明治6 年の師走、じき7年、沖田芳次郎は鶴岡で、士族の授産施設・松ヶ岡開墾場の 社員になっていた。 庄内藩は、明治2年の版籍奉還で、まず大泉藩、さらに 4年の廃藩置県で、酒田県となった。

 雪の中、沖田芳次郎は、藩の要職を歴任して今は酒田県参事、松平権十郎親 懐(ちかひろ)の屋敷から出て来た怪しい男を尾行していた。 密偵か、「ねえ、 肥前のかた」と声をかけると、いきなりピストルを構え、撃ってきた。 身を かわして、当て身を加えて気絶させる。 密偵は、もうひとりいた。 しかも かなりの遣い手だった。 斬り合いになる。 「芳次郎は天然理心流を修めて、 腕に覚えがあった。同じ新徴組にいた父の林太郎も、免許皆伝の腕前だった。 叔父など江戸の試衛館道場で、師範を務めたほどなのだ。それから京に上り、 新選組を率いた沖田総司のことだ。」

 ここで、私は引っかかった。 沖田総司は庄内藩だったっけ、と。 広尾か ら六本木へ行く道の途中、専称寺に墓があるのは知っていた。 調べると、陸 奥国白河藩士の沖田勝次郎とミキ(日野宿四谷宮原家の娘)の長男、江戸の白 河藩屋敷(西麻布)で生まれている。 ふたりの姉がいて、沖田家は、長姉の ミツが婿に「林太郎」を迎えて相続したという。 沖田総司が死んだのは、慶 應4年5月30日(1868年7月19日)である。 この「林太郎」と、小説の 林太郎は別人なのだろう。 新徴組にいた父の林太郎も、江戸生まれという芳 次郎も、別に白河藩士だったとしても構わないわけではあるが…。

 それはともかくとして、斬り合いになった相手は、かなりの遣い手で、しか も薩摩の示現流だった。 そのあとの展開が楽しみな、出だしだった。