『丁丑公論』と日本国民抵抗の精神2016/02/28 07:37

 富田正文先生の「西郷の死と『丁丑公論』」。 福沢の運動も功を奏せず、明 治10年9月西郷は戦死した。 福沢は痛憤の涙を払いながら、『明治十年 丁 丑公論(ていちゅうこうろん)』を書き上げた。 福沢は言う――、政府の専制 は放っておくと際限のないものであるから、人民としてはこれに抵抗しなけれ ばならぬ。 抵抗するには、文をもってするもの、武をもってするもの、ある いは金をもってするもの、いろいろの方法があるが、いま西郷隆盛は武をもっ てしたもので、自分の考えとは少し違うが、その抵抗の精神に至っては全く文 句を言う筋合はない。

 ところが近頃の論客は政府の鼻息をうかがうばかりで、事の真実に触れよう としない。 こんなことでは百世の後には事の真相が湮滅(いんめつ)してわ からなくなるだろう。 この一篇を草してこれを公論と名づけたのは、人のた めに私するのでなく、国の公平を期するからである。

 いま出版条例というものがあって、人の自由な発言を妨害しているから、い ますぐこれを発表するわけには行かぬが、後世の子孫のために今日の実況を書 き残して、日本国民抵抗の精神を保存し、その気脈を絶たないようにしたいと 思うのである。

 以上は『丁丑公論』の緒言の大意を和らげて写したものだが、政府の施政方 針の誤りから今回の大乱(西南戦争)を惹き起こし、日本に稀なる一人の大丈 夫をむざむざ死地に陥れたことを述べて、政府を糾弾したこの論説は、到底そ の当時の出版条例の下では発表できなかったに違いない。 福沢はこれを筐底 深く秘蔵した。 門下生の石河幹明が福沢家に起臥していたとき、一見したこ とがあったという。 明治34年になって『瘠我慢の説』を『時事新報』に発 表したとき、石河が『丁丑公論』をも発表しては如何といったので、福沢も承 諾し、執筆のときから24年を経て初めて世に知られた。

 『丁丑公論』の大要は、こうだ。 西郷がひとたび西南に乱を起こすと、新 聞は悪逆無道の賊臣として罵詈(ばり)誹謗して憚らないのは、まるで官許を 得て誹謗するようなものだ。 西郷の皇室に対する尊崇心、その個人的徳義、 その自由改進に対する態度を論じて、西郷を武断政治家とする批評へ反論し、 西郷は政府を転覆しようとする者でない。 このような人物に賊名を付するは 当らないとして、そもそも今回の騒乱の原因は政府にあるのだと言い、西郷を 死地に陥らしめた政府側の態度を列挙して評論し、国事の犯罪はその事を悪(に く)んでその人を悪むべきでないと言う。

 「西郷は天下の人物なり。日本狭しと雖(いえど)も、国法厳なりと雖も、 豈(あに)一人を容るゝに餘地なからんや。日本は一日の日本に非ず、国法は 万代の国法に非ず、他日この人物を用るの時ある可きなり。是亦惜む可し。」