92歳、古屋豊さんが小さな声で言った2016/04/15 06:28

 『三田評論』4月号の巻頭随筆「丘の上」で、古屋豊さんの「わが母校、慶 應義塾」を読んで、ちょっと涙が出そうになった。 肩書は「元慶應義塾大学 予科生」とある。 古屋豊さんは92歳、東京生れの東京育ちで、昭和18年10 月、1年10カ月在校した慶應義塾大学予科から、あの雨の神宮外苑の分列行進 の一人として学徒出陣した。 しかし、入隊前の身体検査で結核と宣告され、 一転して結核病者として実社会から転落、療養所で生命との戦いを余儀なくさ れる。 その間、実家は空襲で焼失、両親はなんとか無事だったものの、私物 は一切残っておらず、入院時に着てきた塾の制服ぐらいとなった。 両親が疎 開に続いて不如意な暮しをしていた高崎に、小康を得て退所したのが昭和23 年だった。 治ったわけでなく、復学など到底できる状態ではなく、学校には 何の連絡も取らなかった。 寝たり起きたりの状態で、特効薬もなく、栄養状 態も悪く、やがて病気は再燃、県内の療養所に入院した。 重篤にならぬうち にと最後の手段で、肋骨を6本、一部を切除して病巣部を潰す胸郭成形手術と いう荒療治に踏み切り、ついに8年に及んだ病魔からの脱出に成功する。

 いくたの紆余曲折を経て、気力、体力、精神力も徐々に「青年」を取り戻し てゆき、晴れて社会人として立ち上がることの出来たのは、昭和30年のこと で、病気発見から、12年が経っていた。 その頃にはもう大学に戻りたくても 学費のメドはなく、勉強よりも一人で生きてために、働いて食っていくことが 先だった。

 前橋に新設工場のできた会社に職を得、定年まで結核とは無縁で働いた。 不 思議なことに、その間、慶應出という人と一人も会わなかった。 定年後も、 民生委員ほか、地元にかかわる仕事をしたが、同じく塾との縁がなかった。

 そこへ一昨年、福澤研究センターの都倉武之准教授から、「慶應義塾と戦争」 アーカイブ・プロジェクトの調査のことで、はじめて電話をもらったのだ。 「そ の喜び、心の高揚は計り知れぬものがありました。」

 古屋豊さんは書く。 「一年十カ月しか在校していなかった(しかも予科) という負い目は、日常フッと考えごとがそこに及んだ時いつも身をつらぬきま す。しかし、受験勉強の知識しか持っていなかった青二才に教養という人間の 品格を授けてくれて、それが一生を通しての人間性の確立に役立ったという事 実は何ものにも替え難いものがあります。」 「日吉史学会での浅子勝二郎先生 から御指導いただいた日本美術史の中での仏像彫刻、日本古建築の美への覚醒 は、私の情趣感覚の中に芽生え、花開き、今でも凋むことなく生きつづけてい ます。そのほか皆中途半端ですが、論理学は面白かった。「ガイゼン性」などと いう言葉は教わらなければ今でも読めないかもしれません。複式簿記の原則も、 奥野信太郎先生の漫談まじりの漢文の知識も、すべて一年十カ月に凝縮されて います。大学には唯々感謝の気持ちで一杯です。闘病に続いて社会人となり、 大学には何の連絡もとらずに馬齢を重ねて今日に至りました。小さな声で言わ せて下さい。「わが母校、慶應義塾」と。」

コメント

_ 濱田洪一 ― 2016/04/22 17:11

私も感激しました。今、日経新聞私の履歴書の福澤武さんと同様、学生時代に結核で大変だったのですね。

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