「六四(むし)の会」で鎌倉へ行く2016/06/11 06:27

 6月4日は学生時代のクラブ、文化地理研究会の1964年卒・同期会「六四 (むし)の会」で、鎌倉へ行った。 偶然、建長寺に昨年6月4日(むしの日) 「虫塚」がつくられ、法要が営まれたことがわかった。 虫供養の「虫塚」の 発案者は、虫好きの養老孟司さん、設計は隈研吾さん、二人は栄光学園中・高、 東大の先輩・後輩だという。

 10時に鎌倉駅東口に17名(男性9名、女性8名)が集合(同伴可、会員で ない家内も参加させてもらう。夫婦4組の内、2組は会員同士)、鎌倉ガイド協 会の鷺弘道さんの案内で出発する。 このガイドが、よかった。 鎌倉なんて、 と思いがちだが、上っ面を見て来るだけで、何にも知らないのであった。 い くつか、例を挙げる。

 鎌倉時代は、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた1192(建久3)年から、1333(元 弘3)年の新田義貞が陥し北条高時の滅亡に至る約150年間といわれる。 だ が、鎌倉の時代は、もっと長いというのだ。 頼朝が平家打倒の兵を挙げ鎌倉 に入ったのが1180(治承4)年、鎌倉御所(鎌倉足利家)・足利持氏(もちう じ)が将軍足利義教に敗れて自刃したのが1439(永享11)年、250年を超え ることになる。 鎌倉の寺社は、鎌倉から室町へと重なりあう歴史の姿を、今 に伝える。

 鶴岡八幡宮となると、もっと古い。 1063(康平6)年、河内国を本拠とす る河内源氏2代目の源頼義(頼朝の5代前)が、山城国の石清水八幡宮を鎌倉 の由井郷鶴岡(現、材木座)に鶴岡若宮として勧請したのが始まりだという。  石清水八幡宮のそのまた元は、九州の宇佐八幡宮で、全国約1万5千の分社の 総本社だ。 鶴岡八幡宮の祭神は、本宮(上宮)が、応神天皇(15代)、比売 神(ひめがみ)、神功(じんぐう)皇后。 若宮(下宮)が、仁徳天皇(16代)、 履中天皇(17代)、仲媛命(応神天皇妃)、磐之媛命(仁徳天皇妃)。 源頼朝 はどうかといえば、境内にある「白旗神社」の現在の祭神(源実朝と共に)で ある。 石清水八幡宮は初め、皇室守護と平安京鎮護の神として祀られていた が、やがて武神として崇敬されるようになった。 八幡神=応神天皇の母であ る神功皇后による新羅平定伝承、即ち、神功皇后が胎内に応神天皇を宿しなが ら朝鮮に出兵して戦い勝利したことから、戦勝の守り神とされたのである。 宇 佐八幡宮以下、源氏の氏神とされ、武神として幕府の守護神となった。

 鶴岡八幡宮は、当初より神仏習合の神宮寺で、山号「鶴岡山」、寺号「八幡宮 寺」と称し、薬師堂、護摩堂、多宝塔、仁王門、二十五坊などが存在した。 明 治元年の神仏分離令により仏教色が払拭され、現在の姿となった。 境内の「旗 上げ弁財天」は、頼朝が旗上げした時、弁財天の励ましを受けたことに始まる。  当初、弁財天が祀られていたが(鎌倉国宝館に寄託されている弁財天がそれら しい)、明治の廃仏毀釈で、現在は宗像三女神が祀られている。