兪吉濬と福沢諭吉の「朝鮮改造論」後半2016/06/28 06:38

 (2)甲申政変・巨文島事件と「朝鮮改造論の放棄」。

 1884(明治17)年12月4日、甲申政変起こる。 巨文島事件は、1885(明 治18)年4月、イギリス海軍が巨文島(対馬と済州島の間、朝鮮半島寄りにあ る)を占領(1887年まで基地)、英国とロシアの対立が朝鮮に及び、ロシアに よる対馬占領の危機感が高まる。 『時事新報』1885年8月13日社説「朝鮮 人民のために其国の滅亡を賀す」。 巨文島の人民は朝鮮政府に支配されるより も、「強大文明国」イギリスに支配されるほうが幸福だ。 福沢はここで、日本 がアジアの盟主として朝鮮の文明化と独立を成就させる「朝鮮改造論」を完全 に放棄した。 朝鮮が事実において清の「属領」であることを黙認して、ロシ アの脅威を清の危険負担で回避させようとした明治政府に対する、朝鮮が清の 「属領」であることを認めたくない福沢の批判という側面もある。

兪吉濬はアメリカを出発して、1885(明治18)年11月15日横浜に到着、 12月2日横浜を出発、長崎経由で、12月21日仁川に到着する。 この間、金 玉均、福沢に会ったと推察されるが、不明。 帰国後、甲申政変関係者として 軟禁され、軟禁下で『西遊見聞』を輯述し、1889(明治22)年脱稿、前述の 交詢社での出版(印刷は秀英舎)は1896(明治29)年。 この間、1892(明 治25)年にソウルから出ない条件で軟禁を解除される。

 兪吉濬は、慶應で知り、同じく米国留学中の福沢一太郎、捨次郎(マサチュ ーセッツ工科大学に在学)と、E・S・モースの関係もあり、親しかったよう だ。 福沢はモース宛の書簡(1884年8月13日付)で兪吉濬が世話になって いる礼を述べ、捨次郎からの問い合わせに答え、兪吉濬は帰国後軟禁されたそ うで「野蛮国の悪風これを聞くも忌わしき次第なり。何れにしても箇様なる国 は一日も早く滅亡する方天意に叶ふ事と存候。」(1886年10月26日付)と書 いている。

 (3)甲午改革の第4次金弘集内閣と「朝鮮改造論」。

 日本軍による景福宮占領と閔氏政権の打倒に続き、1894(明治27)年7月 27日朝鮮政府に軍国機務処が設置され、甲午改革と呼ばれる約1年半におよぶ 近代的改革が始まった。 兪吉濬は、1894年6月23日再び統理交渉通商事務 衙門主事に、そして軍国機務処会議員に任命される。 1895(明治28)年7 月には内部署理大臣になり、10月8日の王后閔氏殺害事件の後、12月には内 部大臣に任命され、主務大臣として「断髪令」(サントゥと呼ばれる男性の「ま げ」を強制的に切る)を発布する。 『時事新報』は、1896(明治29)年1 月23日の社説「朝鮮政府に金を貸す可し」で、日清戦争以後、朝鮮政府が日 本に「依頼」するようになったとし、金弘集内閣の兪吉濬による「断髪令」に 至って、明治維新以来の日本をことごとく模範とした改革が実現しつつあると、 期待を表明した。

 ところが金弘集内閣は脆弱で、1896(明治29)年2月11日、朝鮮国王高宗 が王太子とともに貞洞のロシア公使館に避難するという「俄(露)館播遷(が かんはせん)」事件が発生、金弘集総理大臣、魚允中度支那大臣らは捕らえられ て殺害され、兪吉濬らは日本に亡命する。 兪吉濬は、1907(明治40)年の 皇帝純宗の特赦による帰国まで、12年間亡命。 1902(明治35)年に皇帝高 宗廃位クーデター計画の露呈により、小笠原に送られ、のち八丈島に移る。 福 沢は、俄館播遷ののちに「朝鮮改造論」を再度放棄したまま、1901(明治34) 年2月3日に亡くなるのだが、その口惜しさは『福翁自伝』において言外にに じみ出ている。