「19世紀後半のイェール大学における中国人と日本人留学生」2016/07/01 06:17

 そして容應萸(ヨウ オウユ)亜細亜大学経営学部教授の報告「19世紀後半 のイェール大学における中国人と日本人留学生」である。 容應萸教授は女性、 ご専門は国際関係論、東洋史、日本史で、キーワードは留学生、ディアスポラ、 珠江デルタ、創造産業(コンテンツ)、知的財産権と、亜細亜大学の教員情報に ある。 学歴は、1972年4月~1979年7月東京大学大学院社会学研究科、1981 年9月東京大学社会学博士号取得。 ハーバード大学とイェール大学で研究員。

清国政府は、1872(明治5)年から4年連続で、毎年30名、計120名の官 費留学生「留米幼童」(9歳~15歳、平均年齢12歳)を、アメリカに派遣した。  1881(明治14)年に全員が召還されたため、計画は中断した。 「留米幼童」 のうち、21名が、1874年~87年にイェール大学に在学したことが記録で確認 できる。

 容應萸教授の研究のきっかけには、いくつかの偶然の発見があった。 容應 萸教授の祖父の従兄弟に容閎(ヨウ コウ、1828-1912)がいた。 中国人と してはじめて米国の大学(イェール大学)を卒業し、「留米幼童」派遣計画の立 案者で、初代の留学生副監督。 その容閎から宣教師のサミュエル・ウェルズ・ ウィリアムズに宛てた手紙(1849年4月15日、1852年12月30日)、吉田松 陰の手紙(1854年4月5日・原本。<等々力短信 第1067号 2015.1.25.> 「松陰、ペリー黒船に密航図る」参照)をイェール大学図書館のウィリアムズ 家文書で発見した。 サミュエル・ウェルズ・ウィリアムズは1853年、中国 にいて開国交渉に向うペリーの通訳として日本に来た。 香港にいた宣教師サ ミュエル・ロビンズ・ブラウン(イェール大学、ユニオン神学校卒)が1847 年、容閎ら三人の中国人少年をアメリカ留学に連れて行き、モンソン・アカデ ミーに入学させた。 モンソンにある家族墓地には蘆原周平と国友滝之助とい う2人の日本人の墓がある。 Hillhouse High Schoolの学生名簿には詹(セ ン)天佑(「留米幼童」の一人で「中国鉄道の父」)と山川捨松(<小人閑居日 記 2013.8.12.>「山川健次郎の妹、さき(大山捨松)の留学」参照)の名前 があった。 ノ-スロップ(B.G.Northrop・イェール大学卒)は森有礼の友達 で、山川捨松など日本人女子留学生と中国「留米幼童」のホームステイ先の世 話人。

 容應萸教授の研究の目的は、(1)米国人と日中両国の留学生が繋がりを持っ た背景や経緯を明らかにする。(2)日中留学生の間に交流・交友関係があった かどうか、その原因は何であるかを考察する。(3)同時代にイェール大学にい た日中留学生を比較し、両国が近代化において「同じ出発の時点」に立ったと いえるかを検証する。

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