イェール大学における日中留学生2016/07/03 06:43

 容應萸教授は調査をして、1870・80年代ニューヘイブンにいた日本人学生 (計45名)と中国人学生(計30名)、1870~87年にイェール大学に在学した 日本人学生(計21名)と中国人学生(計21名)の一覧表を作成している。 ニ ューヘイブンには、山川捨松と永井繁子がいたが、中国人学生はすべて男性だ そうだ。

 イェール大学に在学した学生についての考察。

 (1)家庭的背景…日本側の21名は全員士族出身と思われる。 中には旧藩 主(岡部長職)、藩主の子(島津又之進)、後の首相の子(松方幸次郎)、蘭学者 の箕作阮甫から始まる学者一族の子孫(箕作佳吉)。 中国人学生21名は、廣 東省の教会関係や西洋人と商売をやっていた人の子供で、「留米幼童」の選抜基 準を満たすためには、全員が何年間かの教育を受けていたもの。

 (2)渡米時の年齢と動機…日本人学生は平均年齢が20.2歳、中国人学生は 12.9歳だった。 留学動機は、中国人学生はまだ幼いので親や保護者の考えだ ったろうし、日本人学生は日本のおかれた国際環境への強い危機意識と西洋に 学ぶという確固たる目的意識を持っていた。

 (3)イェール大学入学までの教育背景…一般的に日本人は現地の高校で学 んでから入学したが、大学南校出身の文部省第一期留学生(鳩山和夫)は直接 大学2年に編入された。 中国人学生は、年齢が低いので、捨松のようにホー ムステイして基礎学力を身につけ公立学校に入るか、繁子のように個人の家庭 が経営する小規模な私立学校の寄宿舎に入るかした。

 (4)専攻と取得学位…中国人学生の全員は正規の学部生で、13人はイェー ル・カレッジ、8人がシェフィールド(科学学校)に籍をおいた。 専攻を選 ぶ際、日本人学生は、政府・社会に必要とされる人材になることを優先的に考 えていた節がある。 法学を志望した者が多かった。 取得学位、理学士は山 川健次郎(会津)、箕作佳吉(津山)、重見周吉(今治・医学博士も)、文学士は 田尻稲次郎(薩摩)、法学士は澤田俊三(忍)、法学修士は荘清次郎(大村)、法 学士・法学修士・法学博士は松方幸次郎(薩摩)、土屋宗一(佐賀・博士号取得 2カ月後に亡くなる)、法学修士・法学博士は鳩山和夫(美作勝山)、神学士・ 哲学博士は中島力造(福知山)。 中国人学生では、理学士詹(セン)天佑ら4 名、文学士陳龍ら8名。

 (5)帰国後の職業…日中留学生とも帰国後、留学中に修得した語学や知識 が評価され、それを生かせる仕事につけた。 挙国一致で近代化を急ぐ日本で は、すぐ要職につくことができたけれど、中国では一部の洋務担当高官の配下 となって働いた(西太后後の改革でようやく、李鴻章の海軍関係などに)。 同 じ出発点を有しながら、中国の近代化事業は日本に遅れを取っていた。 この ことが、日本と中国の近代化の比較において、どのような意味を持っていたか は、今後の検討課題である。

 日中両国の留学生は、同じ時期に同じ高校や学部に在学していたものがいて、 彼らの交友を妨げるような要素はないが、親交が深まり連帯したという記録は 見当たらない。 そのことがその後の日中関係の発展とどのようなかかわりが あったかも、今後の検討課題である。