「外からの改革」と馬場辰猪の客死2016/07/11 06:33

 在米時代―1886(明治19)~88(21)年。 88(明治21)年1月にフィラ デルフィアの馬場辰猪の近くに転居した留学中の福澤桃介は、親密に往来する ようになり、馬場の日本の武具・甲冑類についての講演の前座をつとめた。 馬 場は当時、「日本国民の輿論の進歩」つまり『日本の政治状態』の執筆をすすめ ていた。 87年後半から88年前半にかけて、馬場の藩閥政府に対する攻撃は、 新聞や雑誌への寄稿(「日本監獄論」「日本人」など)という形で激しさを増し ていった。 これに対し、在米日本公使館は妨害工作をし、執拗な防御策を講 じた。 87年の保安条例の公布を機に、アメリカの各紙で日本の保安条例や信 教の自由について論戦が展開されるようになり、馬場は再び発言の機会を得る。  「日本の圧政」「日本の混乱」「日本の政治」「日本の内閣」などの論説が掲載さ れた。

 夏休みを利用して欧州旅行をしていたペンシルヴァニア大学留学中の岩崎久 弥が、9月20日にフィラデルフィアに戻ると、馬場は肺病で衰弱がはげしく、 金もないので、下宿の部屋で衰弱死を待っているような状態だった。 久弥は 見るに忍びなく、翌日ペンシルヴァニア大学病院に入院させる。 入院で小康 を得て、10月中旬にふたたび「日記」に弱弱しい字体ながら、ペンを執る。 死 の直前まで英文パンフレット『日本の政治状態』の出版について心配していた が、帰国も国会の開設を見ることもかなわず、88(明治21)年11月1日の夕 刻、久弥と林民雄(のちに日本郵船専務)に見守られながら、静かに38年の 生涯を終えた。 久弥は多くの書物をはじめとする馬場の荷物一切を引きとり、 入院費や弁護士などの経費の支払いをすませ、フィラデルフィア博物館に預け られていた武器・甲冑類の処分、墓標の建立など一切を取り仕切った。 11月 6日、馬場は大学病院の裏手にあるウッドランズ墓地に埋葬され、高さ3メー トル余の方尖形(オベリスク)の墓碑には「大日本馬場辰猪之墓」と刻まれて いる。(このあたりについては、静嘉堂参与・原徳三さんの「馬場辰猪墓碑建立 顛末―岩崎弥之助宛岩崎久弥書簡―」(『福澤諭吉年鑑』37・2010年)がある。)

 杉山伸也さんは「馬場辰猪伝」の「おわりに」で、こう書く。 馬場辰猪は、 明治日本におけるリベラリストとして「自己の思想を激しく生きた人であった」。  そのはげしさは、英国留学時の森有礼の「日本語廃止・英語採用論」にたいし て反論した『日本語文典』、板垣の外遊批判、米国での藩閥政府批判などにあら われている。

 1896(明治29)年11月2日、谷中天王寺で馬場辰猪八周年祭が開催された。  福澤諭吉をはじめ荘田平五郎、金子堅太郎、田口卯吉、渡辺洪基、中上川彦次 郎、矢野文雄、尾崎行雄、犬養毅、中江兆民、大石正巳ら慶應義塾を中心に国 友会や共存同衆など馬場の友人・知人140余名の錚々たるメンバーが出席した。  福澤は「追弔辞」を、自身で読むことに耐えられなかったのであろうか、犬養 毅が代読した。 福澤は前日の11月1日に芝紅葉館で開催された慶應義塾同 窓会に出席し、くりかえし人間の「気品」を強調したという。

 「福澤諭吉払涙記」と結んだ「馬場辰猪君追弔辞」の一節。 「……君ハ天 下の人才にして其期する所も亦大なりと雖も吾々が特ニ君ニ忘るゝこと能はざ る所のものハ其気風品格の高尚なるニ在り、学者万巻の書を読み百物の理を講 ずるも平生一片の気品なき者ハ付遂ニ賤丈夫たるを免かれず、君の如きハ西洋 文明学の知識ニ兼て其精神の真面目を得たる者と云ふ可し……君の形体ハ既に 逝くと雖も生前の気品ハ知人の忘れんとして忘るゝ能はざる所にして百年の後 尚他の亀鑑たり。」