「悔悟」の意味するもの2016/07/14 06:31

 杉山伸也さんは「悔悟」を解題して、「生」と「死」の問題を扱っているとす る。 亡くなる半年前、馬場にはもはや生きて明治日本の政治改革に参加する 選択肢は残っていなかった。 馬場は明治維新を貴族政治から民主政治の時代 へ社会を大きく変化させた「革命」の時代とみて、新生日本の原点として新政 府の開明性・革新性に期待した。 馬場は戊辰戦争当時、土佐に帰り、戊辰戦 争に身を投じる機会を逃し、それがコンプレックスとなっていた。

 1878(明治11)年5月馬場が二度目の英国留学から帰国した三日後、大久 保利通が暗殺され、「能力も気品もない第二世代の政治指導者」が政権をになう ようになった。 政局は混迷化し、明治14年の政変で藩閥による支配が確立 した。 馬場の期待した民主政治の方向とは真逆の、専制化・圧政化の方向が 顕著になり、言論・出版や集会の自由に対する統制が次第に強化された。

 「悔悟」で、川田も義助も、目的であったはずの「復讐」は、ともに果たす ことも、果されることも、かなわなかった。 この意味では、明治新時代の方 向を逆行させるにいたった明治政府に対する「復讐」、いいかえれば米国の世論 による明治日本の外からの改革を果たすこともかなわず、志半ばで逝った馬場 の心情を描き出していると考えられなくもない。

 馬場は英国時代を共有した共存同衆をはじめとする多くの友人たちが、政府 に出仕している中で、みずからその可能性を断ち切り、在野であることを貫き 通し、教育や啓蒙活動など「民心之改革」に専心した。 馬場を踏みとどまら せたのは、明治政府から一定の距離をおき、在野であることを貫き通した福澤 諭吉の存在であり、また福澤の「民心之改革」への想いにたいする馬場の共感 であったことは否定できない。

 民衆の側に立ち続けることが、武士の血をひく者としてのプライドであり、 自分こそが日本における自由党(リベラル)の精神を代弁しているというつよ い自負心であったといえよう。

馬場が明治維新に間に合うようにもう少し早く生まれていれば、新しい明治 の時代をもっとふさわしい方向に導くことができたと考えたかも知れない。  しかし、現実の明治日本はどうであったか。 政府だけではなく、民権家もま た民衆も馬場の期待からはほど遠かった。 このように考えると、馬場のいう 「悔悟」とは、自分自身の無力さへの実感と、明治維新の時点にさかのぼって 再度歴史をはじめるべきであるという明治日本の「悔悟」であったのかも知れ ない、と杉山伸也さんは書いている。