馬場孤蝶の言う「訳語の不足」2016/07/15 06:38

 杉山伸也・川崎勝編『馬場辰猪 日記と遺稿』には、参考篇として馬場孤蝶の 「福澤先生と馬場辰猪―昭和十三年一月十日・福澤先生誕生記念講演速記―」 が収録されている。 馬場孤蝶(勝弥・1869(明治2)年~1940(昭和15) 年)は明治学院を出て、慶應義塾で英文学を教えた人だから、明治学院中学を 出た私は親しい感じがしていた。 しかし、馬場辰猪との年齢差が19歳だっ たことは、この本で杉山伸也さんの「自由党への期待と現実―馬場辰猪「日記」 解題―」を読むまで、気が付かなかった。 孤蝶の兄辰猪についての記憶は、 辰猪が英国から一時帰国した1875(明治8)年2月から3月初旬までの約2週 間が最初であるが「その記憶は余り明確なものでは無い」といい、孤蝶の辰猪 像は、78(明治11)年5月に辰猪が再度の英国留学から帰国し、86(明治19) 年6月に米国に旅立つまでの期間、いいかえると孤蝶が9歳の頃から17歳ま での8年間にすぎない、のだそうだ。

なお「自由党への期待と現実―馬場辰猪「日記」解題―」だが、馬場辰猪は 1881(明治14)年10月18日の自由党結党とともに常議員に就くが、12月に 右脚深在性皮下膿瘍を発病し、翌82年5月まで療養生活を余儀なくされた。  新発見の1882(明治15)年の日記から、その前後に、機関紙『自由新聞』を 創刊して主筆となるが、党首板垣退助の洋行に反対して、同紙を退社するあた りの日々の事情が、明らかになった。 馬場らの板垣批判は、外遊費出所の問 題というよりも、結党間もないこの重要な時期に板垣の進退(長期の不在)は、 自由党の前途の利害に大いに関係があると考えたからだった。

そこで馬場孤蝶の講演だが、「訳語の不足」というところが、気になった。  私は「等々力短信」第939号(2004(平成16)年5月25日)「左のポッケに ゃ福沢手紙」を書いて、刊行されたばかりの慶應義塾編『福沢諭吉の手紙』(岩 波文庫)を紹介し、9日にも触れた福沢の馬場辰猪宛の手紙から、福沢の片仮 名の面白さをまず取り上げた。 「「マインドの騒動は今なお止まず」「旧習の 惑溺を一掃して新らしきエレメントを誘導し、民心の改革をいたしたく」「結局 我輩の目的は、我邦のナショナリチを保護するの赤心のみ」「あくまでご勉強の 上ご帰国、我ネーションのデスチニーをご担当成られたく」という有名な明治 7年10月12日付馬場辰猪宛を始め、インポルタンス、スクールマーストル、 プライウェートビジニス、モラルスタントアルド、ソンデイの夜、スピーチュ の稽古、「ウカウカいたし居り候ては、次第にノーレジを狭くするよう相成るべ く、一年ばかり学問するつもりなり」といった具合である。」

 馬場孤蝶の「訳語の不足」だが、その手紙を某新聞社の明治の色々のものの 展覧会に出したら、出品目録の写真版の注釈に「この手紙は英語が書いてあっ たりして洵(まこと)に珍文である」とあったという。 孤蝶は、若い人が書 いたのであろうが、このくらい精神の籠った手紙を、英語が書いてあるから珍 文だということだけで注釈を了ってしまうというのは、洵に心なき業だと思っ たと語る。 マインドとか、エレメントという英語を入れておられるのだが、 この時代にはそれより外に言葉がなかった。 明治の初め頃は外国語を訳する 適当な日本語がなかったので、何でもない言葉でも外国の言葉をお使いになる より外に途がなかった。 福澤先生若くは明治初年の学者先輩の骨折りによっ て、今日のように日本語が進んだので、これは全く諸先輩のお蔭だと思う。 自 分が面白いと思うのは、外国の言葉をよく消化してお用いになっていることで ある、と。

 「等々力短信」第939号は竹田行之さんの目に留まり、私は『福澤手帖』第 122号(2004(平成16)年9月)に「福澤諭吉の片仮名力(ぢから)」を書か せて頂いたのだった。 しかし、片仮名の面白さ、そこに秘められた力を指摘 しただけで、当時の翻訳の苦心にまでは、考えが及んでいなかった。  「一つ一つの片仮名表記が、立ち上がって、われわれの心に響き、鮮明な記 憶として残る、言霊(ことだま)とでもいうべき力を持っていることに気づい たのだ。」「『学問のすゝめ』の、ミッヅルカラッス、マルチルドム、スピイチ、 ヲブセルウェーション、リーゾニング、『文明論之概略』の、ナショナリチ、シ ウヰ(小字)リゼイション、スタチスチク、ヒロソヒイとポリチカルマタル、 モラルとインテレクト、フリイ・シチなども、そうした力を持ったキー・ワー ドだ。当時の人々にとっては、われわれが今読むよりも、その一語一語は、光 り輝くものだったろう。」