その時期の藤沢周平年譜2016/07/17 07:14

 ドラマ『ふつうが一番』で、藤沢周平=小菅留治に娘が生まれ、先妻が8か 月で死んだのが昭和38(1963)年、和子と再婚するのが昭和44(1969)年だ った。 私が社会に出たのは昭和39年、結婚したのも同じ昭和44年だったこ ともあって、時代背景がよくわかり、余計ドラマにのめり込むことになった。

 藤沢周平の年譜を見る(山形新聞社編『藤沢周平と庄内』ダイヤモンド社・ 1997年)。 藤沢周平=小菅留治は昭和2(1927)年12月26日、山形県東田 川郡黄金村大字高坂(現鶴岡市大字高坂)に生れたから、私より14歳年上に なる。 国民学校高等科を卒業し、印刷会社や村役場に勤めて、県立鶴岡中学 校夜間部を卒業、山形師範学校に入り、昭和24年(22歳)に卒業、湯田川村 立湯田川中学校で国語と社会、学級も担当する。 同人誌「プレリュウド」を 発行し、詩「みちしるべ」を発表。 しかし翌昭和25年検診で肺結核が判明、 新学期から休職、入院、療養生活に入る。 昭和26年(26歳)東京都北多摩 郡東村山町の篠田病院に入院、右肺上葉切除手術の後、二回の補助成形手術を 受け、肋骨五本を切除。 入院中に俳句同好会に参加、静岡の俳誌「海坂」に 俳句を投稿。

 昭和32年(30歳)退院。 業界新聞K社に入社、そのあと数社の業界新聞 社を転々とする。 昭和34年(32歳)湯田川中赴任のとき3年生だった鶴岡 市の三浦悦子さんと結婚。 昭和35年(33歳)日本食品経済社に入社し、日 本加工食品新聞(ハム・ソーセージの業界新聞)の編集に携わる。 生活がよ うやく安定。

 このあたりからが、ドラマ『ふつうが一番』の時代になる。 昭和38年(36 歳)読売新聞が毎月募集していた短編小説賞に応募、1月『赤い夕日』が選外 佳作。長女誕生。10月悦子さん死亡(28歳)。  昭和39年(37歳)「オール讀物」新人賞に投稿を始める。  昭和44年(42歳)東京・江戸川区小岩の高澤和子さんと再婚。  昭和46年(44歳)『溟い海』で「オール讀物」新人賞受賞。  昭和48年(48歳)『暗殺の年輪』(「オール讀物」3月号)で直木賞受賞。

 向井敏さんの『海坂藩の侍たち―藤沢周平と時代小説』(文藝春秋・1994年) で、そのへんのことを読んでみる。 藤沢周平が作家として名乗り出たのは、 昭和46年、『溟い海』で「オール讀物」新人賞受賞をして、6月号に掲載され、 その期の直木賞候補に推されたのがきっかけだった。 すでに43歳、走路に 出た時期としては人より遅かったが、その蔵する力量にはただならぬものがあ って、『囮』(「オール讀物」昭和46年11月号)、『黒い繩』(「別冊文藝春秋」 昭和47年秋季号)、『暗殺の年輪』(「オール讀物」昭和48年3月号)と、4作 つづけて各期の直木賞候補に推され、その4度目の『暗殺の年輪』で第69回 直木賞を射止めることになる。

 向井敏さんは、藤沢周平は厖大な数の作品を書いていながら「むら」という ものがまったくない、物語はつねにしっかりと練られ、文章はいつもよく磨か れて、佳品傑作は多いが、駄作は一篇もない、いい加減に書き流した作は見当 たらない、一作一作が勝負、たえず旧作をしのぐことにつとめる、この守則を 奉じて、ついぞ節を枉(ま)げるということがなかった、と書いている。