一之輔の「粗忽の釘」後半2016/07/24 06:51

 冗談じゃねえんだ、煙草ものめねえ。 こんちは、つかぬことを伺いますが、 壁から釘が出てないでしょうか。 薮から棒だね。 いえ、壁から釘で。 あ んた、箪笥背負って、ウチの前を、十七往復した人だね。 女房が、釘掛ける から、ホウキ打てってんですよ。 それで八寸の瓦ッ釘、打っちゃった。 ウ チまでは届かないでしょう。 長いですから。 空きだなはお向うだけ、両隣 は吉田さんと田中さんだ。 あなた、きれいな目してますね。

 前の家に行っちゃったよ。 知ってる、ずっと見てた。 間に、道が一本あ る。 あの道もローマへ通ず。 お前さんはいい、一緒になってよかった。 落 ち着きゃあ半人前なんだから、隣へ行っといで。

 ごめん下さい。 ちょっと、落ち着かせて下さい。 どなたで? お前、知 ってる人か? (口笛吹いて)煙草を喫う。 ピッピッピッ、煙草盆を。 逆 らわない方がいい、陽気の変り目だ。

 あっしは大工でしてね、女房は角の伊勢屋、知ってるでしょ、あの呉服屋の 女中だった。 七年前に、犬のペロがいなくなって、探してたろ。 娘のチイ ちゃんが、泣いた。 ペロが七つで、チイちゃんが十一。 ハァじゃないよ。  いけねえ、前の前に住んでた所で…。 女房が流しで、皿洗ってた。 それを あっしが後ろから、着物の八ツ口に手を入れて、コチョコチョとやった。 そ れがお光っつあんと、口を利いた初めで……、逃げんなよ! それで一緒にな った、七年前の夏、お湯屋が休みで、行水にしようとなってね。 行水してい ると、かかあがあたしも入りたいって、入って来た。 シャボンを背中合わせ に挟んで、ツーーッ、ツーーッ、と上がったり、下がったり。 その内に、前 向きになって、ツーーッ、ツーーッ、アーーッ、もう寝ようよ、となった。 盥 の底が抜けて、二人で盥を持って、蟹のように横に歩いてたら、盥の輪っかが 外れて、バランバランになった。 アッ、アッ、アッ! 飛び込んできた野郎 がいる。 ペロだ。 あっしのマタグラのところに、じゃれついた。 かかあ が、シッポを持って振り回す。 ペロが、ポンと空を、風を切って飛んでった。  それが、最初の引越しの理由で。

 いいかかあだ、生涯連れ添おうと思ってる、余所で言っちゃあ駄目だよ。 時 にあなた、何か用で? 釘打ったの、忘れてた。 この長屋に越して来て、ホ ウキを掛けるんで、釘を打った。 壁から出てないかと思って。 どのへんで?

 (自分の家へ戻って)ここです。(と、指差す) あんた最高です、叩いてみ て。 ドン、ドン! もう、いい、仏壇だ。(と、扉を開ける) アッ! 隣の 方、来て下さい。 仏壇を見て。 仏壇、変わりはないけれど…。 阿弥陀様 のマタグラから釘が出てるだろ、どうするんだ。 明日から、掃除のたびに、 ここにホウキを掛けに来なくちゃあならない。