翻訳家の苦心と喜び<等々力短信 第1085号 2016.7.25.>2016/07/25 08:35

いつもは何気なく読んでいる翻訳が、どんなに大変なものか。 乙川優三郎 さんの小説『ロゴスの市』(徳間書店)を読んで、小尾芙佐さんのご努力ご苦労 を推察することが出来た。 物語の二人、悠子と弘之は、昭和55(1980)年 に二十歳で、三鷹にある大学の英文科の二年生。 それぞれ通訳と翻訳家を志 して、英語漬けの毎日だった。 はっきりとした物言いをするポニーテールの 悠子を、息抜きの文芸サークルに誘うと、アメリカの現代小説で、聞いたこと のない作家の短篇翻訳のアルバイトを紹介される。 内容はリアリズムと前衛 が混在するような、緊張感と危うさを孕んでいる、デラシネの好色な男と虚無 的な女の乱暴な物語。 とりわけ会話が下品で、忠実に訳せば恐ろしく汚い日 本語になる。 どう書いても、原文の過激さに並べないのも、日本語だった。  まず主語を俺にするか私にするかで迷う。 物語にふさわしいのは俺だが、私 を使う方がいくらか優しく、知的で、冷静な一面が表出する。 その翻訳に、 夏休みは潰れた。

立川書房の編集者は、暴力的で虚無的な小説を、大意を失うことなく穏やか な文章に仕立てた弘之に、合格点を与えて言う。 翻訳家のものほど、真剣な 読書はない。 そうして読んだものを、今度は自分が作家のように書いてゆく。  脳味噌の働きは別で、言葉になりそうもないものを表現するのが作家なら、そ れをもう一度別の言葉にするのが翻訳家かもしれない。 そういう作業に耐え られる人は意外に少ない、と。

弘之は、二言語がぶつかると生まれる魔力に魅せられ、一方が素晴らしい表 現をするなら、ふさわしい言葉で迎え撃つしかない、つらくてもそれができな いようでは文芸の翻訳家を名乗る資格はないだろうと、考えるようになる。 ま だ日本では知られていない作家の、何が現れるか知れない文章に神経を張りつ め、その文学性を咀嚼する作業は苦しく、また至福のときでもあった。 ひと つの描写、ひとつの表現に数十通りの和訳を用意しながら、どれひとつ嵌まら ないことがある。 変幻自在な日本語が英語に負けることなど考えられないが、 作家によって絞り出された英文も魔物なのであった。

夜更けに壁を仰いでいると、日本語の言葉が救ってくれる。 習った覚えの ない言葉をなぜ知っているのかと思うことがよくあり、それが母語というもの だと気づいた。 そういう何気ない言葉によって、直訳では味も素っ気もない 文章が、同じ意味でありながら柔らかく生きてくるのだった。 英語圏のどこ かで誰かが織り上げた人間模様に出会い、その人には書けない日本語で同じ模 様に織り直し、同等の生気を吹き込んでみせることが張り合いで、そこには翻 訳家だけが知る筐底の陶酔とでも言うべき宿命の喜びがある。 悠子はギブソ ンタックの同時通訳者になるが、それは本で…。

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