狐の嫁入りの蒔絵、印籠と櫛2016/07/28 06:24

 乙川優三郎さん『逍遥の季節』「夏草雨」の“ふさ”は、深川で茶漬屋「宮古」 を営み、繁昌している。 二十七歳の時、日本橋箔屋町で金銀の箔を商う老舗 の主・藤兵衛が、万字屋の宮古だった遊女を吉原から救い出し、小婦にして店 を持たせてくれたのだった。 当時、四十代の働き盛りだった藤兵衛は五十七 歳、病に倒れて日本橋の家で療養しているのだが、息子の美喜蔵が訪ねて来て、 先月隠居し、深川のふさに看取られて死にたいと言っていると言う。 ふさは、 その申し出を受けることにした。 美喜蔵は、ふさが趣味で彫って、棚に並べ てある根付に目を止めた。 その一つ、巨大な松茸を背負う於福(おふく)の 像は、以前、藤兵衛が気に入り、これは婿取りの洒落だろうと見抜いた。

 女将のふさは、茶漬屋の客の根付が気になって、煙草入れや印籠を見る。 そ うした客の一人、神田からやって来る印籠蒔絵師の光玉・金次郎と親しくなっ た。 独身で、健啖家、食事に時間と金をかける。 安心して語り合える雰囲 気を持っている。 自作の根付を金次郎に見せると、「使えるね、商売にしない のかい」と言った。 「商売にしたら道楽になりません」と言ったが、一流の 蒔絵師に自分の根付を見てもらう愉しみは捨てがたかった。

 毎年光琳忌の六月二日に、金次郎が休みを取り、二人は乾山の墓のある下谷 坂本の善養寺を参るようになった。 墓参のあと、不忍池か東両国で昼食をと り、夕方まで茶屋に籠って過ごす晩夏の一日が、一年の慰めであった。 その 日、ふさは留守に藤兵衛のことを頼み、店の者にも藤兵衛にも根岸の雨華庵へ ゆくと言って、出かける。 庵主の妙華尼はかつて吉原に生きた人で、酒井抱 一の小婦となってからは友人や養子に恵まれ、ひどく穏やかな暮らしを営んで いる。 実は、ふさは抱一とは幾度か吉原で会っていたが、妙華尼とは面識が なかったのだが…。

 光琳を愛し、蒔絵を愛した抱一とは金次郎も関わりが深く、本当は雨華庵に いてもおかしくない。 金次郎とふさは、乾山の墓参のあと、東両国の路地の 奥の鮓(すし)屋に入った。 食事がすすんで昼酒のまわるころ、金次郎は用 意していた小さな贈り物を取り出した。 ふさの根付、於福のための印籠だっ た。 意匠は狐の嫁入り、黒漆地に霞むように表した小さな狐の群は金の研出 蒔絵で、銀の雨脚に打たれる草むらは葉末を垂れている。 花嫁の駕籠を守る 狐たちは帯刀し、人間さながらの行列は妖しい。

 彼はそれとなく不埒な関係の終わりを告げたのであろうか。 女に渡す嫁入 りの幻影は皮肉な暗示であろう。 優しい彼は口にできずに印籠で示したのか もしれない。

 狐の嫁入りの意匠から、私はほとんど忘れていた朝日新聞連載の『麗しき花 実』のことを思い出した。 印象深い狐の嫁入りの蒔絵は、たしか櫛に施され ていたのだった。