わが「床屋」史、黒髪風に薫じさせ ― 2016/08/04 06:29
床屋は、私みたいに世間の狭い者にとって、一つの世間の窓であった。 ま た床屋は、一人もの思う場所でもある。 一時間ほどの間、じっと座り、モノ となって、気持よく頭をいじられているからだ。 最近は、居眠りしているこ とが多いけれど…。
「海の見える理髪店」を読んで、わが「床屋」史を思った。 品川の中延と いう町で育った。 4歳、父におぶわれて米軍の空襲を生き延びたのが、最初 の記憶だった。 物心のついた戦争直後、家から第二京浜国道を横断した路地 にキマチという床屋があって、家に刈りに来てくれたり、その店に行ったりし ていた。 ずっとキマチと言うだけで、どんな字を書くのか考えたこともなか った。 今さらだが、ネットで苗字を検索したら、来海、來海、来待、耒海な どという字が出た。 一番の思い出は、キマチの帰りだったろう、第二京浜国 道を横断していて進駐軍のジープに轢かれそうになったことだ。 急ブレーキ をかけたGIに怒鳴られたが、アメリカのジープのブレーキ性能に、命を救わ れたことになる。 それがあったので、当時爆発的に売れた三遊亭歌笑が、昭 和25(1950)年5月30日に銀座でジープに轢かれて死んだのを、印象深く憶 えている。 やがてキマチの店は戸越公園に越し、そこにも通っていた。
キマチの店がなくなったのか、家の近くの荏原センターという映画館の隣に あった日比野理髪店に行くようになり、結婚して中延を離れるまで通っていた。 ただ、中延の家を改築した昭和42(1967)年、今住んでいる場所の近くの玉 川田園調布に家を借りていたことがあり、その間、田園調布駅前のカシワバラ という理髪店に通った。 髭剃りの泡を、陶器の容器にブラシで泡立てるので はなく、器械でブーーンと暖かい泡をつくっていた。 当時は「梳きましょう か」と聞かれて、梳いてもらうほどの、ふさふさの黒髪だった。 カシワバラ に恨みはないけれど、今は店がなくなって、ケンタッキー・フライドチキンに なっている。
結婚後、7か月ばかり中延の家にいて、昭和45(1970)年5月に広尾のマン ションに越した。 広尾駅近くに親父さんが一人でやっている木村という店を 見つけた。 銀座の米倉で修業した人で、いかにも、刈っていただけるのが、 有難いという感じがした。 米倉がどういう店かは知っていた。 昭和39 (1964)年に就職した銀行の銀座支店で、学校の一年上で後に証券会社の社長 になった先輩が担当していて、間違えて慶應の学生などが来店すると、出世し てから来いと断られると聞いていたのだった。
さすがに腕は確かで、髭をあたってもらっていても、羽根でなでられるよう だった。 一見の客はたいてい断るし、子供は絶対やらない。 午後6時にな ると店を閉めてしまう。 6時直前に飛び込んでも、やってもらえない。 午 前中は、昔からのお馴染の御屋敷を回っていたらしい。 ある時、佐藤栄作の 話になったら、一言「あの人は嫌いです」と言った。 直接、触れた人の実感 が籠っていた。(つづく)
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