わが「床屋」史、文化理髪室の歳月2016/08/05 06:25

 その木村さんが店を畳むことになり、通うようになったのが、渋谷の東急文 化会館にあった文化理髪室である。 ちょうど、その頃読んだ丸谷才一さんの 『男のポケット』(新潮社)に、こんな話があった。 丸谷さんが芥川賞をもら ったとき、いちばん感動したのは、この床屋が丸谷さんの係だった、佐々木君 という青年からの、祝電だった。 「オメデトウゴザイマス」トコヤササキ」。  「トコヤササキが嬉しい」と、丸谷さんは書いている。 丸谷さんは当時、國 學院大學で教えていたから、文化理髪室へ行っていたのだろう。

 文化理髪室は、理容椅子がずらっと並んでいる従業員も多い店で、三島由紀 夫や、巨人の長嶋茂雄監督が通っていることで知られていた。 理容学校で教 え、かつては目黒の目蒲線の駅の中で営業していた吉田さんという人の店で、 息子兄弟がやっていた。 通ううちにKさんという職人がうまくて、合うこと がわかった。

 日曜の朝、広尾からバスで渋谷まで出て、Kさんに頭を刈ってもらい、東横 のれん街などでお菓子か何か買って帰るのだった。 昭和51(1976)年10月 に等々力に越してからも、ずっと文化理髪室に通っていた。 Kさんがお年で 退職することになって、誰かと訊くと、吉田兄弟の弟さんがいいだろうという。  以後、弟さんにお願いすることにした。 長嶋さんの係も弟さんだったようで、 私は長嶋さんと同じ人に頭を刈ってもらうことになった。

 かつて風に薫じさせていた黒髪は、零細企業の資金繰りに苦労していた頃か らだろうか、めっきり薄くなって、天気予報が「今日はハゲルでしょう」と聞 こえるようになった。 床屋に行く必要があるかとお思いだろうが、ひと月に 一度は、出かけるのである。 かかる時間は、いささか短くなったような気が しないでもないが…。

 平成8(1996)年9月、奥沢に越した。 その前年に中延の家で父が亡くな ったのだが、父の晩年、何度か車椅子を押して日比野理髪店へ連れて行ったこ とがあった。 もう隣の映画館はなくなって、小公園になっていた。 父は永 年日比野さんに通い、お札を渡して、おつりはいらないといっていたようだっ た。 忘れたけれど、私がそれなりのものにしてもらったような気がする。

平成15(2003)年に東急文化会館が閉館し、文化理髪室もなくなったが、 北千束のお兄さんの自宅二階で、吉田さんご兄弟だけで開業することになった。  窓から海は見えないが、環七を流れる車が見える。 土地柄に合わせて、料金 も引き下げた。 二人だけだから、お兄さんにも刈ってもらうようになった。  当時洗足には、三越の小さな店があって、帰りにそこで何か土産を買った。 体 を悪くされた長嶋さんも、相変わらずこの店の顧客で、写真やサインが飾って ある。 二階にある店へ、声をかけて階段を登って来られると聞くのだが、お 会いしたことはない。 三越はなくなったが、近くにクックチャムというベテ ランの女性たちのやっているおかず屋さんを見つけた。 「伝えたいのはお母 さんのやさしい味」という、そこの煮物や和え物が美味しいので、最近はそれ を買って帰る。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック