「不器用な人間」馬場辰猪 ― 2016/08/07 06:49
馬場辰猪は福沢におくれること16年、嘉永3(1850)年土佐藩の士族の家 に生れた。 2年後にはペリーが浦賀に来ている。 やがて藩留学生として江 戸に学び、慶應義塾に学んだ。 明治3(1870)年イギリスに留学し、法律や 政治を学んだ。 明治11(1878)年に帰国し、自由民権運動家として政治運動 に従事した。 政治にかんする多くの講演・演説を残し、当時における最もす ぐれた雄弁家として知られた。 明治18(1885)年爆発物を購入したという 嫌疑で逮捕され数ヶ月の拘留生活の後釈放されると、アメリカに渡った。 そ して明治21(1888)年フィラデルフィアで死んだ。 38歳であった。
つまり馬場辰猪は20歳から28歳までイギリスに学び、晩年35歳から38歳 までアメリカにいたから、その間日本で活動したのは28歳から35歳までの7 年間ということになる。 イギリス留学は実に8年に及んでいる。 なぜ8年 に及んだのか。 法律の勉強は明治9年に終っていたと考えられるから、少く とも最後の1年余りの間は空白の時間があったようである。 ついには馬場辰 猪の生命を奪った肺患による健康状態の衰えや財政的な困難などもあったが、 萩原氏の推論によれば、馬場をロンドンに引きとめておいた最大の原因は「日 本の民衆の状態」にあったというのである。 馬場辰猪はいわばそれまでの修 業の時代を終え、今こそ修業時代の蓄積をもとにした活動の時代に入らねばな らない所に立っていた。 日本には福沢をはじめとする多くの人々が彼を期待 してその帰国の日を待っていた。 馬場辰猪はこの時期までにイギリス政治の 実態を見聞することによって民主主義者としての立場を明確にし、しかもその 実践活動を政府の外でおこなうことを自覚していた。 彼が身につけたのは民 衆への献身をすすめる思想であり、彼が帰国して働きかけるのは日本の民衆で あった。 この日本の民衆の状態、社会の状態は、彼が観念として得た民衆や 社会とはかなりの距離のあるものだということこそ、馬場辰猪をして帰国をた めらわせ空白の時をすごさせていた最大の原因だと萩原氏は論ずる。 この馬 場の無為と不決断の日々は、彼が同じ土佐の留学生真辺戒作に対しておこした 傷害事件によって終りをつげる。
帰国後「実業家」か「学者」として、あるいは「官吏」として成功をおさめ ることは、馬場辰猪の経歴、学識や才能からみても、また明治11年という時 点からみても、きわめて簡単なことであったろう。 しかし彼はその道をとら なかった。 『自伝』のはじめに馬場辰猪は「勇士としての事蹟を日本の歴史 にのこした祖先の物語に激励されて、そういう境遇の下にいなかったならば、 実業家とか科学者とかになっていたかもしれないその若者は、抵抗しがたく政 治の領域へと導かれて、自分の国のために何事かをなしたいという希望をもつ に至ったのである。」と書いている。 この『自伝』は、このようにして政治の 世界に足をふみいれた彼が、その中に没入して苦闘したにもかかわらず、つい には解体した自由民権運動の姿を見てしまった後、アメリカへの逃避行の前に 執筆したものである。 馬場辰猪は『日本政治の状態』の中で、かっての留学 生仲間が帰国後、官吏となって、生活のためにの理想をまげていく姿を、同情 をもってみつめているけれど、彼自身はついにいわば不器用な人間としてその 一生をつらぬいている。 それは姿勢からいえば「みだれぬ形」の選択であり、 経済の面からいえば「清貧」の選択であった。
馬場辰猪の帰国後の政治的立場は、福沢のそれときわめて近いものであった。 新帰朝者の馬場が決して明治政府に出仕しようとしなかったことについては、 それが当時の政府に対する憎悪や怨恨からでも、その性格に対する不信と否定 の立場からでもなく、福沢流の在野の「洋学者」の積極的意味を理解し、それ を身をもって実践しようとする立場からのものであったと考えられる。 それ はつまりこの時期の明治政府の果していた「開明的」役割に対して偏見のない 評価を与えていたということである。 そして馬場辰猪が共存同衆という啓蒙 的講演団体の集会を通じて「民心の改革」という事業に向って歩き出した時、 彼がもっぱら採用したのは「政談演説」ではなく、政治や法律や歴史の根本の 仕組みを平易に説明する「学術講演」だったのである。(つづく)
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