馬場辰猪、実際政治の世界へ踏み込む ― 2016/08/08 06:20
しかしながら、馬場辰猪はいつまでも福沢と同じ立場にとどまれなかった。 福沢があくまで「学者社会」にとどまって啓蒙活動を続けたのに対し、馬場は 実際政治の世界、自由民権運動のただ中に踏みこんでいった。 イギリスから 帰国後の馬場が活動の舞台とした共存同衆は、その会員の多くが官吏であり講 演を主な活動方法としていたこともあって、明治12年5月の官吏の民間にお ける啓蒙活動に対する箝口令と、明治12年4月の「集会条例」の発布とのた めに、事実上壊滅してしまった。 このように共存同衆を壊滅させた政府によ る言論統制の強化が、同時に馬場辰猪を実際政治の社会へ連れ出す役割を果す ことになったのである。 藩閥政府が言論の自由という基本的人権に向って切 り込んできた時に、馬場は、後退することなく、ためらうことなく、攻勢の矢 面に向って歩きはじめた。 政府の圧迫がつよくなれば、民間の抵抗もつよま らなければならない、そうでなければ政治の健全さは保てないというのが彼の 論理であった。 馬場はその生涯を通じて自己の論理のさし示す帰結に対して 忠実であったけれども、ここにこのような馬場の精神的態度が織りなしてゆく 物語がすでに始まったのである。
共存同衆の解体にともなって、馬場辰猪は国友会を経て自由党へと続く道を 歩むことになる。 ここで馬場は重大な選択をした。 つまり国友会の同志の 中には、いままで馬場辰猪が経験してきた知的な生活圏(それは福沢諭吉とイ ギリスの影響下にあったのだが)にいた旧知の人々は、いなかった。 旧知の 人々の大部分は改進党に参加していくのに、馬場辰猪一人は国友会から自由党 へ進んだのである。
馬場辰猪が共存同衆、国友会という経過をふんで、しだいに実際政治の舞台 にせり出していった明治11年から14年にかけての時期は、同時に土佐の立志 社を拠点にして発足した国会開設を求める民間運動がしだいにひろがりを獲得 していった時期であった。 この運動は明治14年に入るとおりから起った「開 拓使官有物払下げ事件」によって熱気と活力をもりこまれ、藩閥政府は危機に おちいったが、この窮迫した状態を打開したのがいわゆる「明治14年の政変」 であった。
この政変は悪名高い払下げを撤回するとともに、明治23年を期して国会を 開設する旨の詔勅を発布して民心をおさえる一方、政府部内の開明派の旗がし らとみなされていた大隈重信を追放し、さらには福沢諭吉の慶應義塾に学んだ 官吏をすべて追放したものである。 払下げ処分の撤回と国会開設の公約にま で政府を追い込んだのは国会開設という一点に焦点をあわせた全国的な民間運 動のエネルギーであった。 そして政変の直後明治14年10月29日に、この 運動の集約として、自由党の成立をみたのである。(つづく)
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