富士見町芸者とH大学書生の結婚2016/08/17 06:13

当時山ノ手の富士見町は、三流にさえ届かぬ土地だった。 富奴の芸名で芸 者となった17歳の多代は、明治40年、通ってくる書生の佐海新助と心ばかり の祝言を挙げた。 新助は五つ年長の22歳、名古屋に近い富裕な農家の末っ 子で、母方の叔母ヨネと夫金兵衛の養子になり、12歳で横浜の馬車道の実母の 弟の家に出てきた。 実母の弟にはお咲という長女がいて、東京に出て看護婦 になったが、その病院に要路の高官が入院して、その男の手がついた。 高官 の囲い者となり、葭町から看板借りで芸者になって、土地の一流にのし上がる。  金兵衛夫婦も、独り立ちの店を持ったお咲に資本をおろしてもらうと赤坂で古 道具屋を始め、新助は神田の商業学校に通っていた。 お咲の旦那は園田とい う鉱山成金の子息に変っていたが、その園田の姉の連れ合いの関口は何度か代 議士に打って出ていて、時の政界に覇をとなえ、H大学の学長も務める朝比奈 侯爵の子分、腹心だった。 お咲は、弟のように思っている新助を関口の書生 として預ける。

 新助は、商業学校を卒業するとH大学に進む。 関口からは、頭脳はすぐれ 算盤が抜群の新助を大学の会計で使ってみようという話が出た。 新助は会計 の職にありながら、閑な折は教室で講義を聴いた。 いつの間にか飲酒と待合 遊びをおぼえたのが富士見町、多代の富奴と切っても切れぬ仲になった。 多 代が葭町で全盛を謳われているお咲のところに挨拶にいくと、「出来たことは仕 方がないさ」「お多代さん、あたしはなにも言わないよ。その代りあたしはもう 新助の面倒はみませんよ……。いいね、ご承知だね」と、静かな口調で、きっ ぱりきめつけた。