芸者家をして育ててくれた母を想う ― 2016/08/20 06:30
二年ぶりに新助から連絡があり、養母ヨネが死んだので、多代が九歳の喜代 子と七歳の松太郎を引き取ることになる。 姉は近くの小学校へ、松太郎は青 山にあるSH学院の附属小学校に入学する。 新助がそんな学校に入れてくれ といったからだ。 母親が芸者であることはもちろん、松太郎が芸者家から通 学していることも秘密にしておかなければならなかった。 担任の教師にだけ は、多代の客である大学教授を通じてそれとなくこちらの事情を臭わせてあっ たが、その口止めにも心をくばり、絶えず付け届けをかかさなかった。 松太 郎の住所も、近くにある懇意な水菓子屋に頼み込んで、その家にしてもらって いた。
野口冨士男の年譜をみると、「1917(大正6)年6歳、いったん帰国した父 にともなわれて、牛込区肴町(現新宿区)の生母(小トミ)と再会し、母に引 き取られる。 1918(大正7)年7歳、慶應義塾幼稚舎入学、同級生に岡本太 郎、重松宣也がいた。のち重松に文学の世界に引き入れられる。」とある。 『風 の系譜』の「SH学院附属小学校」が、慶應義塾幼稚舎であることがわかる。
学校へは一人で通わせることも出来た。 しかし遠足ともなれば、学校では 生徒たちに付添人があるものとして、集合も解散も直接停車場で行なわれる。 どうしても、誰かをつけてやらぬわけにはいかなかった。 いつも多代が頭を 痛めねばならなかったのは、この付添を誰にするかという問題だった。 近所 の車宿にたのんで、なるべく年嵩(としかさ)の親切そうな車夫にきてもらう ようにしていたのだが、あいにくその車宿が閉店してしまった。 それで今度 は三人いる抱え芸者のうちから、いちばん灰汁抜けのしていないこどもを選ぶ ことにしてみた。 大急ぎで紡績の着物を仕立てに出すと、それを着せて出さ せるような工夫までこらした。 けれども、やっぱり嘘はつけぬものであった。 堅気と玄人とでは、どこか衣類の着こなしや白粉の刷き方などにも相違がある。 その当時のいわゆる堅気の家庭では使用人に羽織を着せない習慣であったのに、 風邪をひかせては可哀そうだという思い遣りから着せて出したことなどが、却 っていけなかったかもしれない。 遠足の次の日、松太郎が学校へ行くと、た ちまち他の生徒の付添たちに取り巻かれた。 「あれはお宅のどういう方?」、 「小間使ですって……、お父様のご商売は?」と問い詰められ、幼い松太郎は ほとほと返答に窮したという。 多代は、こんなことから松太郎に僻み(ひが み)込まれでもしようものなら、それこそ取り返しのつかぬことになると心を 暗くした。
なるほど出来てきた記念写真を見ると、生徒たちの背後にずらりと並んだ他 の付添たちにまじって、松太郎の付添だけはどことなく粋めいていた。 それ はなんとしてでも芝で生まれた植木職人の娘お光ではなくて、誰の眼にも津の 守の芸者家、小島家の抱え芸者、光勇に違いなかった。
野口冨士男の『風の系譜』には、芸者として生き抜き、自分を育ててくれた 母親への深い敬愛がにじみ出ている。
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