母を描いた野口冨士男の短篇「石蹴り」2016/08/21 08:29

野口冨士男に母のことを描いた「石蹴り」という短篇がある。(『風景』昭和 41年7月号初出、講談社文芸文庫『なぎの葉考 少女』所収) 「私は子供の ころ、たった一人で石蹴りをして遊んだことが幾度かある。私は家から遠くは なれた場所にある小学校へ電車で通っていたので、家の近くには遊び友達がな かった。」と書き出し、「あのころ……関東大震災よりも以前の東京の道路は、 どこも土の道路であった。その土の色が、いま私の眼にうかんで来る。」

 「物ごころづいてから私が最初に母と顔を合せたのは、小学校前年の秋であ る。シナから突然父が戻って来て、姉は静岡に残されたまま、私だけが父に連 れられて浜名湖畔の弁天島の旅館に行った。そこに東京から母が来ていて、私 は父に引き合わされた。」 「母とともに帰京した私は翌春小学校へ入学すると いったん寄宿舎に入れられたのち、二年生の時から自宅通学するようになった。」

「母からその年ごろの子供としては潤沢すぎるほどの小遣を与えられていた 私は、さすがにまだミルクホールなどへ入ることはなかったが、雑誌や間食の 菓子類は自分で買って、文明館(牛込通寺町の映画館)へも一人で入った。」 「文 明館だけでなく、少年時代の私はもうすこし神楽坂に近いワラダナという所に あった牛込館へもよく通った。」 「日本映画の女優で最初に魅力を感じたのは、 この映画(『髑髏の舞』)の岡田嘉子であった。」「若い岡田嘉子に母性的な美を 感じていた。少年が異性に感じる美は、母なるものへの回帰の思想であろう。 その場合の母とは、温かいものの代名詞である。」 「が、しかし、現実の私の 母は、どこか他の母親たちとは違っていた。」

 「少年時代の私は気管が弱くて小児喘息の気味があったから、母は医師の指 示で夏ごとに私を房州の海岸地に避暑に出してくれた。」「私は中学のなかばご ろまで、夏ごとに海岸へ行った。そしてすこし間を置いて、学生時代の終りご ろから学校を出た直後までは、母が鎌倉の極楽寺に持っていた家屋の使用権を 与えられていた。」

 「学校をやめたいと私が言い出したとき、母は私を小田原の郊外へ連れて行 って大学病院の先生だという人に引き合わせた。」「母がなぜ、その問題につい て父とは相談しなかったかという理由は、私には容易に推察できる。父に言え ば、かならず反対するにきまっていたからである。したがって、母がその手数 をはぶいたのは、はじめから私を阻止しようという意志を持たなかったことを 意味する。」「今ほど交通事情がよくなかった時代に小田原まで出かけたのは、 そんな彼女のせめてもの気安めであったろうと私には考えられる。」

「母は、私のことならなんでも許した。脆弱な私の健康を案じて小説を書く ことはいやがっても、やめろということは言わなかった。」

 「二十歳かそこらで父と離婚して、ずっと独身ですごしながら私の生活から 学資の一切を見つづけた母には、時として自己嫌悪にたえられぬ思いをかみし めたことがあるに相違ない。」                            轟亭