横浜の水、日本初の近代水道 ― 2016/08/25 06:31
昔の横浜駅である桜木町駅近くの掃部山公園の崖下に、水が湧き出ていると ころがあって、その民家の脇に入れてもらうと、鉄道のために掘った横井戸が 現れた。 蒸気機関車を動かすためには、大量の真水がいる。 昔の横浜駅付 近は海岸だから、井戸を掘っても塩分を含んだ水しか出ないからだ。 ローム 層の下にある、水を通しやすい礫層と、水を通しにくい泥炭層との境い目から、 水が滲み出ている。 この横井戸は、鉄道湧水なのだった。 タモリは100倍 に膨張した蒸気が、蒸気機関車のピストンを動かす働きを、近江友里恵アナに 説明した。 「ジョシ、ダンシ、ジョシ、ダンシ! 女子と男子の協力で動く」 と。
開港当初、“ハマ”横浜村500人と吉田新田の田圃だった横浜は、明治15 (1882)年には人口が7万7千人にも増加した。 深刻な水不足に陥ったのだ。 そこで『ブラタモリ』一行は、尻こすり坂という急坂へ行く。 野毛山と藤棚 方面を結ぶ西区西戸部町1丁目付近。 地図に水道道とある。 明治20(1887) 年、相模川の取水口から野毛山の配水池までの、44キロのアップダウンを、逆 サイフォンの原理の自然の力で、水を引いてきた日本初の近代水道だ。 129 年後の現在も、横浜中心部の約10万世帯に水を供給しているという。
明治20年、近代水道というので、私がすぐに思い出したのは、今まで、し ばしばこの日記でも書いてきたW・K・バルトンのことだ。 ただ、バルトン の来日は、まさにその明治20年なのである。 横浜市水道局のホームページ を見ると、日本初の近代水道である横浜の水道の顧問は、英国人技師H・S・ パーマーだった。 海を埋め立てて拡張した横浜は、井戸を掘っても塩分を含 んで良質の水は得られず、飲み水に適さなかった。 明治10(1877)年、12 年、15年、19年にはコレラの大流行もあった。 神奈川県知事は、H・S・パ ーマーを顧問として、相模川の上流に水源を求め、明治18(1885)年近代水 道の建設に着手し、明治20(1887)年9月に完成(三井取水所、野毛山浄水 場)、10月17日に給水が開始された。 横浜が発祥の地となった近代水道とは、 川などから取り入れた水をろ過して、鉄管などを用いて有圧で給水し、いつで も使うことのできる水道をいう。
昭和60(1985)年厚生省選定の「近代水道百選」に横浜市の水道施設が4 つ選ばれている。 相模原市緑区青山の「旧三井用水取入口」、「旧青山取入口 と沈でん池」「城山ずい道」「水道創設記念噴水塔」だ。 「水道創設記念噴水 塔」は、日本近代建築の父と呼ばれ、鹿鳴館や山手聖公会などを設計したジョ サイア・コンドルにより選定され、英国のアンドリュー・ハンディサイド社で 製造された。 鋳鉄製で高さ約4・4メートル、重さ約1・3トン、イルカ、ラ イオン、葉アザミなどの模様が施されている。 現在は横浜水道記念館(保土 ヶ谷区川島町)に保存されている。 水道創設100周年を記念して、レプリカ が製作され、港の見える丘公園と、創設当時の水源地であった相模原市緑区(も との津久井町)に設置されている。
『不機嫌な作詞家 阿久悠日記を読む』<等々力短信 第1086号 2016.8.25.> ― 2016/08/25 06:33
三田完さんの本は、この短信で何度か紹介してきた。 『俳風三麗花』(975 号)『当マイクロフォン』(989号)『草の花』(1025号)『歌は季につれ』(1045 号)『俳魁』(1062号)だ。 8月1日だったか、NHKニュースウォッチ9に 三田完さんが映っているのを見た。 明治大学に阿久悠記念館があり、そこに ある阿久悠日記をご子息の深田太郎さんや大学教授、編集者など6名で読み研 究しているという。 そのコーナーのキーワードは、「「逆境を好機に変える天 才」になりたい」だった。 直後、三田完著『不機嫌な作詞家 阿久悠日記を読 む』(文藝春秋)の広告を見たので、さっそく読む。
私は2003年に阿久悠さんの『日記力』(講談社+α新書)を読んで、7月3 日~6日の<小人閑居日記>に、「日記で時代の風や人間を読み取る」「すべて はメモから始まる」「情報やイメージに騙されないために」「阿久悠『日記』風 を試みる」を書いていた。
三田完さんは、NHK時代の平成3(1991)年に作詞家生活25周年『阿久悠 歌は時代を語り続けた』という2時間番組制作に関わって、阿久さんとの“え にし”を深め、翌年地方局転勤をいいわたされたのをきっかけに、阿久さんを マネージメントするオフィス・トゥー・ワンに入社、阿久さんが亡くなる平成 19(2007)年まで15年間、この歌謡界の巨人の身近にいた。 同社は、久米 宏さんをマネージメントし、『ニュースステーション』(テレビ朝日)の制作に も開発段階からかかわっていたことを知る。
阿久悠=深田公之(ひろゆき)さんは、昭和12(1937)年に淡路島で巡査 の子に生まれ、洲本高校から明治大学文学部に進む、柴生田稔教授の指導で卒 論は和泉式部を書いた。 昭和34(1959)年広告代理店宣弘社に入り、コピ ーや企画書を書いていたが、5年目にアルバイトでオフィス・トゥー・ワンに 所属、テレビのコントを書く放送作家阿久悠との二重生活に入る。 29歳で宣 弘社を退社、作詞家デビューもして、昭和45(1970)年森山加代子の『白い 蝶のサンバ』が48万枚のヒット、通帳に見たことのない桁の数字が印字され た。 『笑って許して』(和田アキ子)、『ざんげの値打ちもない』(北原ミレイ) もヒット、作詞家阿久悠は一挙に歌謡界のモンスターとなった。 時代は変わ っても、「人間は、やはり悲しいし淋しいし、また、幸福を求めるもので、時代 の中で変装した心を探すのが、歌だと思います。」 ヒットメーカーとして頂点 を極めたのは昭和48(1973)年からの6年間。 作詞から小説に力点を移し、 昭和54(1979)年上梓の『瀬戸内少年野球団』が直木賞候補になった。 精 力的に小説執筆をつづけ、何度か直木賞候補にもなるが、受賞は叶わなかった。 日記に、<ライバルが直木賞とりし日の夜の梅こぼれ散る様しばし見ており> ―なかにし礼氏受賞―。
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