『不機嫌な作詞家 阿久悠日記を読む』<等々力短信 第1086号 2016.8.25.>2016/08/25 06:33

三田完さんの本は、この短信で何度か紹介してきた。 『俳風三麗花』(975 号)『当マイクロフォン』(989号)『草の花』(1025号)『歌は季につれ』(1045 号)『俳魁』(1062号)だ。 8月1日だったか、NHKニュースウォッチ9に 三田完さんが映っているのを見た。 明治大学に阿久悠記念館があり、そこに ある阿久悠日記をご子息の深田太郎さんや大学教授、編集者など6名で読み研 究しているという。 そのコーナーのキーワードは、「「逆境を好機に変える天 才」になりたい」だった。 直後、三田完著『不機嫌な作詞家 阿久悠日記を読 む』(文藝春秋)の広告を見たので、さっそく読む。

 私は2003年に阿久悠さんの『日記力』(講談社+α新書)を読んで、7月3 日~6日の<小人閑居日記>に、「日記で時代の風や人間を読み取る」「すべて はメモから始まる」「情報やイメージに騙されないために」「阿久悠『日記』風 を試みる」を書いていた。

 三田完さんは、NHK時代の平成3(1991)年に作詞家生活25周年『阿久悠 歌は時代を語り続けた』という2時間番組制作に関わって、阿久さんとの“え にし”を深め、翌年地方局転勤をいいわたされたのをきっかけに、阿久さんを マネージメントするオフィス・トゥー・ワンに入社、阿久さんが亡くなる平成 19(2007)年まで15年間、この歌謡界の巨人の身近にいた。 同社は、久米 宏さんをマネージメントし、『ニュースステーション』(テレビ朝日)の制作に も開発段階からかかわっていたことを知る。

 阿久悠=深田公之(ひろゆき)さんは、昭和12(1937)年に淡路島で巡査 の子に生まれ、洲本高校から明治大学文学部に進む、柴生田稔教授の指導で卒 論は和泉式部を書いた。 昭和34(1959)年広告代理店宣弘社に入り、コピ ーや企画書を書いていたが、5年目にアルバイトでオフィス・トゥー・ワンに 所属、テレビのコントを書く放送作家阿久悠との二重生活に入る。 29歳で宣 弘社を退社、作詞家デビューもして、昭和45(1970)年森山加代子の『白い 蝶のサンバ』が48万枚のヒット、通帳に見たことのない桁の数字が印字され た。 『笑って許して』(和田アキ子)、『ざんげの値打ちもない』(北原ミレイ) もヒット、作詞家阿久悠は一挙に歌謡界のモンスターとなった。 時代は変わ っても、「人間は、やはり悲しいし淋しいし、また、幸福を求めるもので、時代 の中で変装した心を探すのが、歌だと思います。」 ヒットメーカーとして頂点 を極めたのは昭和48(1973)年からの6年間。 作詞から小説に力点を移し、 昭和54(1979)年上梓の『瀬戸内少年野球団』が直木賞候補になった。 精 力的に小説執筆をつづけ、何度か直木賞候補にもなるが、受賞は叶わなかった。  日記に、<ライバルが直木賞とりし日の夜の梅こぼれ散る様しばし見ており> ―なかにし礼氏受賞―。

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