「伏見は“日本の首都”だった!?」2016/08/26 06:27

 『ブラタモリ』でとても勉強になったのは、その横浜の前の回「京都・伏見」 「伏見は“日本の首都”だった!?」(5月7日放送)である。 安土桃山時代 というけれど、安土は織田信長の安土城、桃山は豊臣秀吉の伏見城が政治の中 心だった時代であると、あらためて言われて、なるほどと納得した。 大坂城 は豊臣家のプライベートな家で、豊臣政権のオフィシャルな場所は伏見城だっ たという。 桃山は、京都市伏見区の地名で、伏見の中心街の南東に当たり、 伏見城の廃址に桃が多く植えられたため、この称が起こったという、明治天皇 の伏見桃山陵、昭憲皇太后の伏見桃山東陵がある、と『広辞苑』に書いてある。

『ブラタモリ』ではおなじみの京都街歩きガイド、京都高低差崖会(がっか い)崖長(がけちょう)梅林秀行さん(42)が、伏見は“日本の首都”だった ことを説明していく。 東山連峰南端の丘陵に位置し、前面に宇治川、巨椋池 (おぐらいけ)を控え、京都盆地はもちろん大坂から奈良まで一望できる自然 の要害地、絶好の立地だったので、慶長元(1596)年豊臣秀吉が伏見城を築き、 丘陵西斜面に城下町を造成し、“日本の首都”とした。 それまで宇治川が直接 巨椋池に流入していたのを、豊臣秀吉が伏見城の築城にあたり、文禄3(1594) 年宇治川の流路を変更して、淀川に直結、日本で最も重要な商業都市大坂と結 ぶとともに、巨椋池の上を通る道路「太閤堤」を築いて、伏見を水陸両面から 交通の要衝、物流の中心としたのである。(落語の『三十石 夢の通い路』など があるのは、秀吉のおかげだということになる。)

伏見城の築城と城下町の造成は驚きの都市計画、一大土木工事で、秀吉の土 木工事好きが現れている。 伏見城の本丸は、現在明治天皇陵の敷地の一部に なっているが、その北側に直線の巨大な堀(北堀)の跡がある。 幅150メー トル、深さ15メートルの堀を人工的に掘っている。 伏見城はすべてを一年 未満で築いたといわれ、天下人の権力を物語っている。 豊臣秀吉は「土木デ ベロッパー」「豊臣建設」だった。 巨大で直線的な、すさまじい地形、伏見に ちょこちょこ残る直線を見たら、豊臣と思え、と梅林秀行さんは言う。

元和5(1619)年、徳川幕府によって伏見城は取り壊され、跡地に桃の木が 植樹されて、桃の名所になった。 江戸時代の絵地図に、桃山とあり、たくさ ん桃の花が咲いていた。 現在建っている伏見城のまがい物は、昔の本丸とは 違う場所に、昭和39(1964)年キャッスルランドという遊園地が建てたもの、 13年前に閉園したため、『ブラタモリ』でなければ、入れなかった。  それにしても豊臣秀吉のつくった伏見城を、徳川幕府が壊し、明治天皇の崩 御に際し伏見桃山陵がつくられた。 権力の興亡を如実に物語っている。