大名屋敷街と新旧の伏見城2016/08/27 06:31

 大河ドラマ『真田丸』を、とても面白く見ている。 「伏見」についても、 実際の政治が、大坂でなく、この伏見の地で行なわれていたことが、よくわか る。 諸大名は、伏見城下にそれぞれ屋敷を持って、妻子は人質として住まわ されていた。 後の江戸は、そのやり方を踏襲したわけだ。

 『ブラタモリ』「伏見は“日本の首都”だった!?」で、伏見城から宇治川、 巨椋池のある低湿地へ向かって、傾斜地に城下町を造成した大工事を説明して いた。 丹波橋駅(京阪本線・近鉄)へ向かう傾斜地の道路は左右はまっすぐ なのだが、路面はうねっている(アップダウンがある)。 これは「直線を見た ら、豊臣と思え」で、京都にならって碁盤の目に造成し、自然の地形に逆らっ て、まっすぐな道を通したためだ。

 お城に近い斜面は急勾配で、段差が見られ、雛段型に造成したかなり広い敷 地になっている。 ここは大名屋敷街だ。 現在の地名にも、伏見区の、桃山 毛利長門西町(毛利輝元邸)、桃山福島太夫西町(福島正則邸)、桃山長岡越中 東町(細川忠興邸)、桃山町金森出雲(金森可重邸)、桃山羽柴長吉西町(池田 長吉邸)などと、残っている。 福島正則邸は、黒田家の母里(もり)太兵衛 がここへ使いに行き、名槍日本号をかけて酒を飲み競べた、あの「酒は飲め飲 め…」の「黒田節」の故事の場所だそうだ。

 最近の『真田丸』「応酬」「動乱」では慶長3(1598)年、秀吉の死を秘して いる間に、徳川家康がいろいろ画策して、影響力を強めてゆくため、石田三成 との対立が次第に激しくなり、三成はついに徳川屋敷の夜襲を計画する。 そ の動きを察知した家康の家老本多正信は、徳川屋敷に諸大名を集めて、三成の 企ては頓挫する。 その徳川屋敷も、真田昌幸の屋敷も、ここ伏見の大名屋敷 街にあった。

 そもそも伏見城は、関白の位と聚楽第を豊臣秀次に譲った秀吉の隠居屋敷と して築かれたが、秀頼が産まれたことから大規模な改修を行なって、秀吉の本 城となった。 『ブラタモリ』が最後に行った、宇治川沿いの京阪宇治線観月 橋駅近くの、伏見区桃山町泰長老の集合住宅の所が、昨2015年、最初の伏見 城である指月(しげつ)城の場所であることが発掘によって確認された。 金 箔瓦やしゃちほこの瓦が出土したのだ。 指月城は、築城の2年後、文禄5 (1596)年の慶長伏見地震で崩壊した(慶長に改元)ため、新たに木幡山城(木 幡城)が築城された、これが明治天皇陵の所の城だ。 秀吉は、晩年の5年間 を、自らがつくった“日本の首都”伏見で過ごした。 秀吉最後の豪遊となっ た「醍醐の花見」の醍醐寺も、伏見城から4キロほどの場所になる。