金沢を火事から守った辰巳用水2016/09/01 06:18

 『ブラタモリ』「金沢」「加賀百万石はどう守られた!?」の後半は、金沢を 危機から守ったもう一つの巨大な構造物について、であった。 「外惣構」が 出来てから21年後の寛永8(1631)年4月14日、民家から出火した火事が大 火となり、金沢城を含む城下町に大被害をもたらした。 金沢城も焼け落ちた。  台地の先端に城を築いた金沢には、弱点があった。 犀川と浅野川、二つの川 から水を取れないのだった。

 さっそく金沢城から11キロの犀川上流で取水して、台地のへりを通って、 金沢城に至る水路の大工事を開始、大火の翌年1632年辰巳用水を完成したの である。 『ブラタモリ』では、兼六園の徽軫(ことじ)灯籠近くにある石畳 が、用水の痕跡の石管であり、角の水の桝には水の通る穴が残っているのを見 せていた。 兼六園(当時の竹沢御殿)と金沢城の二の丸の間には堀があり、 石川橋がかかっている。 その部分、低地から高地へ、さらに低い場所を通っ て、「逆サイフォン」空気圧の原理で水を送っていたのを、実験でやってみせた。

 辰巳用水は、11キロ先の東岩取水口(金沢市上辰巳町)で取水し、台地のへ りのトンネル部分が4キロに及ぶ。 辰巳用水の絵図に蒲鉾型の印が沢山ある のだが、トンネルを掘った時の横穴で、現在でも点検や落盤などの修理用に使 われている。 横穴は30メートルおきに、139か所残っている。 その一つか ら高さ2メートルの水路にタモリが入って、100メートルほど歩いたが、岩盤 をくりぬいたノミの跡が残っていた。 大変な工事だったろう。

 防火のために引かれた辰巳用水は、城下町の暮しを潤し、田畑を広げた。  380年前につくられた辰巳用水が、その後も、金沢の繁栄を支え続けたのであ る。

 『ブラタモリ』#3「金沢」は、城下町における水の確保の重要性を認識させ てくれた最初で、それは「小田原」「沼田」、そして江戸の町づくりへも通じる。  「会津」にも猪苗代湖から水を引く「戸ノ口用水」の話があった。

大村益次郎銅像の場所に競馬場2016/09/02 06:37

 野口冨士男『風の系譜』(講談社文芸文庫)の、川本三郎さんの解説に、野口 冨士男は「小説の主人公が生きる東京の町を正確詳細に書き込んでいった。人 間を町のなかに置いた。その結果、リアリズムの小説にありがちな人間関係の 濃密さから来る息苦しさがない、風景小説の広がりがある。」  「野口冨士男 は、後年、東京の町をよく歩いた永井荷風を論じた『わが荷風』(昭和五十年) や、自分が暮してきた東京の町々を回想した『私のなかの東京』(昭和五十三年) を書いたように、東京の地誌に深い関心を持った。」とある。

 『風の系譜』の冒頭、いきなり私が知らなかった東京の町の風景が出てきた。  靖国神社の外苑にあたる広場、早稲田通りから入って大村益次郎の銅像を囲む あの広場に、競馬場があったというのである。 「今でも(小説が書かれた昭 和15(1940)年当時)あの付近に住む人々は馬場と呼んでいる。招魂祭の折 には、小屋掛けの見世物と参詣の人群れとにぎっしり埋めつくされてしまう、 埃っぽい広場である。」 「楕円形の馬場があって、東京の競馬場としては最初 のものであった。大祭のたびに三日間ぐらい競馬がおこなわれて、見物人は立 木の上にまで鈴生りになっていた。競馬とはいっても陸軍の主催だから、観覧 料などもとらなかった。出場馬は軍馬で、騎手は軍服の兵士たちであった。」

 「競馬は明治の初年にはじめられて、二十年ごろが最後になった。二十四年 に大村益次郎の銅像が建てられるまでは、まだあの周囲に馬場の柵がのこされ ていたのである。」

 私は2000(平成12)年10月5日の<等々力短信>第891号「大村益次郎 と靖国神社」で、靖国神社になぜ大村益次郎の銅像がたっているかを、司馬遼 太郎さんの『この国のかたち 四』「招魂」で知ったと書いている。 戊辰戦争 での「官軍」の戦死者達は、あたらしく成立しようとする新国家のために死ん だのだった。 戊辰戦争の勝利によって、なんとか内外に公認されことになっ た新政府には、その戦死者達の死を、封建体制下の藩同士の「私戦」による「私 死」でなく、「公死」として、時勢に先んじて「国民」として祭祀することが必 要だった。 でなければ、新しい日本国は、「公」とも、国家ともいえない存在 になってしまう。 大村益次郎の発議によって、明治2(1869)年、九段に招 魂社が出来たのは、そういう事情による。 司馬さんは、そう説明して、「九段 の招魂社は、日本における近代国家の出発点だったといえる」とまでいう。 大 村は、この発案をふくむ国民国家(藩の否定)思想、特に四民による志願制の 国民軍の創設に反対する激徒のために、この年のうちに暗殺された。

 特筆すべきは、明治2年6月につくられた招魂社が、死者を慰めるのに、神 仏儒いずれにもよらず、超宗教の形式をとったことである。 司馬さんは、大 村が、公の祭祀はそうあるべきだと思っていたにちがいないという。 十年後 の明治12年、この招魂社が別格官幣社靖国神社になり、神道によって祭祀さ れることになる。 今日、靖国神社をめぐって、毎年くりかえされるゴタゴタ は、この大村の素志に立ち返れば、すべて解決し、諸外国の元首来日の際に花 束をささげる場所も出来そうに思う。 そう、私は書いていた。

九段坂は、ずっと急坂だった2016/09/03 06:29

 九段で、もう一つ、私が知らなかった風景が、野口冨士男『わが荷風』(岩波 現代文庫)「九段坂・青春前期」にあった。 九段坂は、今よりずっと勾配がき つく、全長も倍近かったというのである。

 永井荷風は明治26年11月、文部大臣秘書官などをしていた父久一郎が永田 町1丁目の官舎から、麹町区飯田町3丁目、黐(もち)の木坂下の借家に移っ たのにともない、生活圏が九段坂周辺になる。 九段坂、中坂、黐の木坂と、 坂が三つ並んでいたが、順々に急な坂で、黐の木坂が一番急だったという。 荷 風より32歳も年少の野口冨士男も少年時代に見ているが、神楽坂と九段坂の 下には、いつも何人かの立ちん坊が腕組みをしながらたむろしていたそうだ。  《牛込の神楽坂 車力はつらいね》という俗謡があったが、九段坂のほうが勾配 がきつかった。 全長も倍ちかかった九段坂の頂上を、それまでよりずっと市 ヶ谷寄りに移して、坂の傾斜をゆるくする大工事がおこなわれたのは関東大震 災の後だった、とある。

 『わが荷風』にあるこの大工事は、おそらく市電のためだろうと推定して、 今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳』5号「東京」(新潮社)を見る。 「九段 線」小川町~九段上は、明治37(1904)年12月17日に小川町から俎橋(ま ないたばし)までが開通。 明治39(1906)年3月21日に九段坂下まで伸び、 さらに明治40(1907)年7月6日に番町線(明治38(1905)年12月29日・ 富士見町~半蔵門開通)の富士見町(1丁目)に接続、明治41(1908)年頃富 士見町を九段上[九段坂上]と改称、昭和5(1930)年4月17日ルート変更 して九段上を開業とある。 「番町線」への「接続」をどのようにしたのか疑 問だけれど、この「ルート変更」というのが、坂の傾斜をゆるくする大工事後 だったのであろう。

 千代田区観光協会のホームページで「九段坂」を見たら、「九段」の名の由来 の二説が書いてあった。 「江戸城吹上庭園の役人の官舎が坂の途中に九棟並 んでいたからとも、江戸時代、急坂で九つの石段上の坂であったからともいわ れています。」 「『新撰東京名所図会』には「九段阪(ママ)は、富士見町の 通りより、飯田町に下る長阪をいふ。むかし御用屋敷の長屋九段に立し故、之 を九段長屋といひしより此阪をば九段阪といひしなり。今は斜めに平かなる阪 となれるも、もとは石を以て横に階を成すこと九層にして、且つ急峻なりし故 に、車馬を通すことなかりし(後略)」とかかれています。」

鷲田清一さん「折々のことば」500回2016/09/04 06:45

 8月26日、哲学者鷲田清一(わしだ・きよかず)さんの朝日新聞1面のコ ラム「折々のことば」が500回を迎えた。 鷲田さんは自分で「折々のことば」 の切り抜きをノートに貼っていて、480回で1冊になり「来たぞ1冊」と思っ たけれど、同時に、むかし著書のデータが1枚のCDにおさまった時の寂しさ と似て、「これだけやって1冊か」と、高重治香記者のインタビューに笑って いる。

 今起きている事件や政治的問題を考えていると、百年や千年の昔に、よく似 た事態について書いている人がいる。 問題を考える時の「補助線」になるよ うな言葉、「今までそんな風に考えたこともなかった」というような言葉を、探 しているという。 「折々のことば」で取り上げる言葉は、昔から鷲田さんが 刺激を受けてきたものが多く、言葉を反芻し、自分の経験と照らし合わせなが ら、長く付き合ってきた言葉だという。

 私も「折々のことば」をいくつか切り抜き、透明なポケットのある手帳に入 れている。 その手帳の最初には、井上ひさしさんの字で、「むずかしいことを やさしく やさしいことをふかく ふかいことをゆかいに ゆかいなことをま じめに 書くこと」というのが入れてある。 一読して、意味のわからないよ うな、難しい言葉は、切り取らない。 書き出してみたら、我田引水というか、 自分や、自分のやっていることを、正当化するための言葉が多いかもしれない ように思われた。 アハハ。

 127「髪の毛が後退しているのではない。私が前進しているのである。 孫 正義」

 224「私たちはこの世を見るために、聞くために、生れてきた。だとすれば、 何かになれなくても、私たちには、生きる意味があるのよ  元ハンセン病患 者のせりふ」

 281「みんな「戦さになってしまって」とか、「戦さが起ってしまって」とか 云ってるよ。   井上ひさし」 (戯曲『花よりダンゴ』から)

 304「すぐ役立つことは、すぐ役立たなくなる。   橋本武」

 339「表現をするということは……「社会を変える方法」を手にするという ことです。   山田創平」 (都市社会学者、京都精華大学のホームページ から)

 341「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。    正岡子規」 (『病牀六尺』から)

 437「がんになると「いつかは死ぬ」が「いつでも死ぬ」になる。それじゃ あ生きている間、おもしろがりたい。   樹木希林」

 456「古今東西 人間みなチョボチョボや   小田実(まこと)」

 486「明るみに出ていることの裏にも重要な事実があり、原則には例外があ り、できごとには背景がある。   高坂正尭(まさたか)」 (『世界地図の 中で考える』から)

『風の系譜』の「ことば」2016/09/05 06:30

 野口冨士男『風の系譜』(講談社文芸文庫)の舞台に近い所にお住まいなので、 勧めた友人が、『風の系譜』を読んでメールをくれた。 久し振りに読みごたえ があり、20代でこんな重厚な本を書いたのか、と驚いている。 そして、こん なフレーズが、ちょっと気に入ったという。

 「昨日に似た今日を、また来る明日の上にも積み重ねて行く。」

 私も、『風の系譜』を読んでいて、父母や祖母が使っていた言い回しや、落語 の中でしか聴かなくなった言葉の、いくつかに気づいた。

「お手ッ払い」…金はあらかたそちらに注ぎ込んで「お手ッ払い」になってい た。

「勿怪(もっけ)のさいわい」

「堂摺連(どうするれん)」…花簪に肩衣(かみしも)姿で客席ににんまり送っ てよこす流し目の魅力に湧き立つ娘義太夫(たれぎだ)の熱烈なファン。

「薬罐(やかん)に入れられた蛸(たこ)」…「手も足も出やしない」。最近、 落語で「柄のない肥え柄杓、手の付けようがない」というのを聞いた。

「二千円の無尽を競り取る」…「無尽」は庶民金融の一種。頼母子講に同じ。 「頼母子講」は互助的な金融組合。組合員が一定の掛金を出し、一定の期日に 抽籤または入札によって所定の金額を順次に組合員に融通する組織。鎌倉時代 から行われた。(『福翁自伝』「一身一家経済の由来」に「頼母子の金二朱を返す」 というのがあって、父の死後、母が人の世話で頼母子講をこしらえて、しのい だ話が出て来る。10年ほど後の13,4歳の時、母に言われて、大阪屋五郎兵衛 が掛棄にした金二朱を返しに行き、しきりに辞退するのを、ぜひにと金を置い て帰った。)「無尽会社」は1951年以降、相互銀行に改組したものが多いとい うが、今は名前が変わってわからなくなった。

「米の飯とお天道様とはだれにでもついてまわる」…「といわれるが、屋根の 下に住んで、おまんまッ粒を口に入れていくのは容易ではない。」

「義理にかたくて、人情にもろい世界」…芸者や待合の女将の世界、花柳界。 「堅気さんの世界」…花柳界などとは別の世界。

「自棄(やけ)のやんぱちで一年が経った。」

「飼犬に手をかまれる」

「貧乏神、ぺんぺん草も生えない」…「あなたの前ではあるし、自分の友達の 悪口は蔭ででも言いたくないんですがねえ、佐海君は貧乏神で、あの男の通っ たあとには、ぺんぺん草も生えないという者さえいるくらいですよ」