大村益次郎銅像の場所に競馬場2016/09/02 06:37

 野口冨士男『風の系譜』(講談社文芸文庫)の、川本三郎さんの解説に、野口 冨士男は「小説の主人公が生きる東京の町を正確詳細に書き込んでいった。人 間を町のなかに置いた。その結果、リアリズムの小説にありがちな人間関係の 濃密さから来る息苦しさがない、風景小説の広がりがある。」  「野口冨士男 は、後年、東京の町をよく歩いた永井荷風を論じた『わが荷風』(昭和五十年) や、自分が暮してきた東京の町々を回想した『私のなかの東京』(昭和五十三年) を書いたように、東京の地誌に深い関心を持った。」とある。

 『風の系譜』の冒頭、いきなり私が知らなかった東京の町の風景が出てきた。  靖国神社の外苑にあたる広場、早稲田通りから入って大村益次郎の銅像を囲む あの広場に、競馬場があったというのである。 「今でも(小説が書かれた昭 和15(1940)年当時)あの付近に住む人々は馬場と呼んでいる。招魂祭の折 には、小屋掛けの見世物と参詣の人群れとにぎっしり埋めつくされてしまう、 埃っぽい広場である。」 「楕円形の馬場があって、東京の競馬場としては最初 のものであった。大祭のたびに三日間ぐらい競馬がおこなわれて、見物人は立 木の上にまで鈴生りになっていた。競馬とはいっても陸軍の主催だから、観覧 料などもとらなかった。出場馬は軍馬で、騎手は軍服の兵士たちであった。」

 「競馬は明治の初年にはじめられて、二十年ごろが最後になった。二十四年 に大村益次郎の銅像が建てられるまでは、まだあの周囲に馬場の柵がのこされ ていたのである。」

 私は2000(平成12)年10月5日の<等々力短信>第891号「大村益次郎 と靖国神社」で、靖国神社になぜ大村益次郎の銅像がたっているかを、司馬遼 太郎さんの『この国のかたち 四』「招魂」で知ったと書いている。 戊辰戦争 での「官軍」の戦死者達は、あたらしく成立しようとする新国家のために死ん だのだった。 戊辰戦争の勝利によって、なんとか内外に公認されことになっ た新政府には、その戦死者達の死を、封建体制下の藩同士の「私戦」による「私 死」でなく、「公死」として、時勢に先んじて「国民」として祭祀することが必 要だった。 でなければ、新しい日本国は、「公」とも、国家ともいえない存在 になってしまう。 大村益次郎の発議によって、明治2(1869)年、九段に招 魂社が出来たのは、そういう事情による。 司馬さんは、そう説明して、「九段 の招魂社は、日本における近代国家の出発点だったといえる」とまでいう。 大 村は、この発案をふくむ国民国家(藩の否定)思想、特に四民による志願制の 国民軍の創設に反対する激徒のために、この年のうちに暗殺された。

 特筆すべきは、明治2年6月につくられた招魂社が、死者を慰めるのに、神 仏儒いずれにもよらず、超宗教の形式をとったことである。 司馬さんは、大 村が、公の祭祀はそうあるべきだと思っていたにちがいないという。 十年後 の明治12年、この招魂社が別格官幣社靖国神社になり、神道によって祭祀さ れることになる。 今日、靖国神社をめぐって、毎年くりかえされるゴタゴタ は、この大村の素志に立ち返れば、すべて解決し、諸外国の元首来日の際に花 束をささげる場所も出来そうに思う。 そう、私は書いていた。