九段坂は、ずっと急坂だった2016/09/03 06:29

 九段で、もう一つ、私が知らなかった風景が、野口冨士男『わが荷風』(岩波 現代文庫)「九段坂・青春前期」にあった。 九段坂は、今よりずっと勾配がき つく、全長も倍近かったというのである。

 永井荷風は明治26年11月、文部大臣秘書官などをしていた父久一郎が永田 町1丁目の官舎から、麹町区飯田町3丁目、黐(もち)の木坂下の借家に移っ たのにともない、生活圏が九段坂周辺になる。 九段坂、中坂、黐の木坂と、 坂が三つ並んでいたが、順々に急な坂で、黐の木坂が一番急だったという。 荷 風より32歳も年少の野口冨士男も少年時代に見ているが、神楽坂と九段坂の 下には、いつも何人かの立ちん坊が腕組みをしながらたむろしていたそうだ。  《牛込の神楽坂 車力はつらいね》という俗謡があったが、九段坂のほうが勾配 がきつかった。 全長も倍ちかかった九段坂の頂上を、それまでよりずっと市 ヶ谷寄りに移して、坂の傾斜をゆるくする大工事がおこなわれたのは関東大震 災の後だった、とある。

 『わが荷風』にあるこの大工事は、おそらく市電のためだろうと推定して、 今尾恵介監修『日本鉄道旅行地図帳』5号「東京」(新潮社)を見る。 「九段 線」小川町~九段上は、明治37(1904)年12月17日に小川町から俎橋(ま ないたばし)までが開通。 明治39(1906)年3月21日に九段坂下まで伸び、 さらに明治40(1907)年7月6日に番町線(明治38(1905)年12月29日・ 富士見町~半蔵門開通)の富士見町(1丁目)に接続、明治41(1908)年頃富 士見町を九段上[九段坂上]と改称、昭和5(1930)年4月17日ルート変更 して九段上を開業とある。 「番町線」への「接続」をどのようにしたのか疑 問だけれど、この「ルート変更」というのが、坂の傾斜をゆるくする大工事後 だったのであろう。

 千代田区観光協会のホームページで「九段坂」を見たら、「九段」の名の由来 の二説が書いてあった。 「江戸城吹上庭園の役人の官舎が坂の途中に九棟並 んでいたからとも、江戸時代、急坂で九つの石段上の坂であったからともいわ れています。」 「『新撰東京名所図会』には「九段阪(ママ)は、富士見町の 通りより、飯田町に下る長阪をいふ。むかし御用屋敷の長屋九段に立し故、之 を九段長屋といひしより此阪をば九段阪といひしなり。今は斜めに平かなる阪 となれるも、もとは石を以て横に階を成すこと九層にして、且つ急峻なりし故 に、車馬を通すことなかりし(後略)」とかかれています。」