林浩平さんの「虚子と三好達治・その文学的交点」2016/09/08 06:12

 3日、『夏潮』別冊『虚子研究号 Vol.VI 2016』の「虚子研究 余滴の会」 を、大久保の俳句文学館地下ホールへ聴きに行った。 専門的なので、私など にはついていけない話題が多かったが、林浩平さんの「虚子と三好達治・その 文学的交点」には興味があった。 私は三好達治の詩が好きで、若い時から読 んでいたからだ。 とりわけ「ああ智慧は かかる靜かな冬の日に」の「冬の日」 や、「志おとろへし日は」は、愛誦している。

 林浩平さんは、昭和29(1954)年和歌山県生れ、詩人、批評家、恵泉女学 園大学特任教授。 NHKでディレクターを6年とかやった後、早稲田大学に 入り直し、近代文学を専攻、萩原朔太郎を研究したそうだ。 三好達治の人気 がない、と言う。 花巻の宮沢賢治記念館を訪れる人は年間20万人を超える のに、大阪高槻市の本澄寺に三好の甥である住職の建てた三好達治記念館には 来訪者が年間二ケタしかないそうだ。

 そこで「虚子と三好達治・その文学的交点」である。 三好達治は昭和19 年3月、小田原から福井県の三国町に疎開し、昭和24年2月までの5年を過 ごした。 越前・三国は、九頭龍川河口の古い歴史を持つ町だ。 私も東尋坊 や、近くの永平寺へ行ったことがある。 三好達治に三国を紹介したのは、北 大路魯山人が経営する星ヶ岡茶寮の支配人を務めていた秦秀雄だった。 秦の 人脈で、江戸期から続く三国町の名家、森田家の別荘を借りた。 森田家は、 十数隻の北前船で交易して財を成し、当時は銀行の経営や醤油醸造に関わって いた。 この森田家の縁が、虚子と三好とを結びつけたのである。

 虚子の小説『虹』に登場する森田愛子は、森田家の当主の三郎右衛門と芸妓 よしのの間に生まれた子だった。 東京に出て実践女子専門学校で学ぶが、結 核を病み、鎌倉で療養中に虚子の門人で後に「ホトトギス」同人会長を務めた 伊藤柏翠のもとで俳句を始めた。 愛子は美人で聡明、虚子は孫弟子にあたる 愛子をことのほか可愛がったという。 愛子は、恋人だった柏翠とともに昭和 17年に郷里の三国に帰って、同棲生活を始める。 柏翠も結核患者だった。 入 籍しなかったのは、ふたりの不治の病いを気遣った虚子の計らいでもあったと いう。

 終戦の翌年、昭和21年11月6日、三国の森田家の屋敷のひとつに虚子を迎 えて、句会が開かれた。 それに三好達治も加わって、嘱目の句を示したとこ ろ、二句をとってもらい、「なかなかうまいぢやないか」とほめられたと、エッ セイ「自慢」にある。 ふたりは初対面で、虚子は72歳、三好は41歳だった。  その二句は、<蘆枯れて江を横ぎる舟もなし><干し柿のをかしき皺を畳みけ り>。 「江」は九頭龍川、その河口に近い森田家の蔵屋敷の二階で句会が催 された。 ここには愛子と柏翠が住んでいて、このとき虚子によって「愛居」 と命名されている。 三好は、隣の別荘を借りていて、エッセイに愛子のこと を「美人で謙譲で利発で、気さんじ者で、さうして永らく胸を病んでゐたのが 何とも痛々しかった」と書いている。(つづく)